ものを書く二つのモード

このところ、本を書くことと訳すことに集中している。
この二つは、いずれも文章を書くという点では似ているけれど、取り組むときの気分はおおいに違っている。というのはもちろん私の場合。
どういう具合に違うかをちょっと書いてみたい。

翻訳をするときは、どちらかといえば心を落ち着かせる必要がある。
翻訳では、まず原文を読む。他人が書いた文章なので、読んでそのまますんなり分かるということは少ない。まずはその人が文章を通じて言おうとしていることを、できるだけよく聞き取る必要がある。実際には「読み取る」なのだが、どうも「聞き取る」と言いたくなる。耳を澄ませる感じに近い。

私の語学力が限られているせいもあって、耳を澄ませたらからといって、いつでもすらすら読めるわけではない。むしろ七転八倒といったほうが近い。既に知っているつもりの言葉や表現であっても、複数の辞書を引き、用例を読み、いま読もうとしている原文の意味を探る。手持ちの文法知識では対応しきれないような構文に出会うことも少なくない。

こうした作業に取り組むには、集中する必要がある。先ほど「心を落ち着かせる必要がある」と言ったのはそういう意味だった。

これに対して、自分の本や文章を書く場合は、もうちょっと違う気分を要する。ごく簡単に言えば、どこかうきうきそわそわして、頭のなかでいろいろな概念やアイデアが撹拌されながらつながりあうような感じだ。静かに翻訳に取り組むのに対して、いくらか落ち着かないような、楽しむような気分である。

問題は、どうしたら翻訳のモードと執筆のモードを切り替えられるかなのだが、これについてはいまだにうまい方法を思いついていない。目下は、朝起きてから午前中を翻訳に、午後を執筆に当てるようにしている。どちらかといえば夜型人間で、深夜になるほど調子が出てくるということも関係しているだろうか。

このところ、このやり方がうまくいっている。おかげで長い間足踏みしてしまったダニエル・ローゼンバーグとアンソニー・グラフトンの共著『時間のカルトグラフィ(Cartographies of Time)』の翻訳も、ほぼ最後まで訳し通して目処が立った。これはヨーロッパにおける年表(タイムライン)という視覚表現がどんなふうに試行錯誤されてきたのかという歴史を追う大変面白い本だ。吉川浩満くんとの共訳で、フィルムアート社から刊行の予定。

最後は宣伝のようになってしまった。

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