小説のゴミ捨て#001 谷崎潤一郎「蘆刈」

わたしは、まだいくらか残っていた酒に未練をおぼえて一と口飲んでは書き一と口飲んでは書きしたが最後の雫(しずく)をしぼってしまうと罎を川面(かわも)へほうり投げた。

というのは、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」の一場面。
(引用は『昭和文学全集 第1巻』、小学館、1987、p. 43)

語り手である「わたし」がふらりと散歩に出る。目にする景色に『増鏡』に記された歴史の光景を重ねて楽しむ様子が描かれる(これぞAR=拡張現実だ)。

途中、うどん屋かなにかに立ち寄って酒を飲み、そこを出るとき、正宗の罎を熱燗で買って出る。

そうして川にゆき、白楽天やら大江匡房だのの文章を思い出したりしながら感慨にふけり、思いついたことを手帖に書く。

冒頭で引いたのは、そのメモをしいしい酒を飲む場面で、ご覧のように「わたし」は空になった罎(びん)を川に投げ捨てている。

この場面を読んで、夏目漱石の『三四郎』のことを思い出した。

そのどこだったかで、三四郎が汽車で弁当を使ったあと、ゴミを窓から投げ捨てる場面がある。私ははじめて読んだとき、子供心に大胆に捨てるものだなあと妙な感心をして、以後『三四郎』といえば汽車のゴミ捨てを思い出すのだった。

「蘆刈」の「わたし」も、飲み終えた罎を投げ捨てる。

この場合、さらに印象的なのは、「わたし」が川縁に立って、その景色を眺めながら、記憶のなかで、かつて読んだ漢詩や歴史書のことなどを甦らせて楽しむ様子との組み合わせ。

その目の前の川に不要になった罎を投げ捨てることは、特に「わたし」の感慨を邪魔するものではないらしい。

こう書いたからといって、なにか「ポイ捨て、ダメ、絶対」といった非難をしようというのではない(個人的にはしないほうがよいと思っているけれど)。

そうではなくて、自分に感興をもたらした川の風景と、そこに罎を捨てることとのあいだにどうも「わたし」がなにごとも感じていないその様子に興味が沸いた。

参考までに記すと、「蘆刈」は1932年(昭和7年)に雑誌『改造』に発表された小説で、谷崎は当時46歳。


いま、『昭和文学全集』(小学館)を第1巻から通読しようとしているところで、ついでのことながら、読んで気になっているポイントについて、目に入るたびメモを残してみようと思う。ゴミ捨てはその一つで、第1巻の冒頭に置かれた谷崎作品でさっそく目にとまったのをここに記す次第。

ダカラドーシタ、と言われても困るのだが、小説のゴミ捨てに遭遇したら、また報告するつもり。続くかどうかは分からない。なにしろ、作中でゴミ捨てが現れなければ報告しようもないからだ。


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