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日記の意外な効能

毎日、1日の終わりに日記を書くようになってかれこれ30年近くになる。

パソコンで文章を書くための環境が整って以来、これなら楽ちんと思ってつけている。ただし、現存しているのは1993年あたりから。それ以前のものは、パソコンや記憶装置の故障とともに消え去ってしまった。

学生の頃の私は存外こまめで、その日買った本や観た映画について、あれこれ書いたりしている。と書いてみて思ったのだけれど、いまより自由になる時間があっただけかもしれない。

日記をつけて始めたのは、物覚えが悪いという自覚があったのと、できたらその日行ったことを記録しておきたいというのが主な動機だったと思う。子供の頃から記憶力にはとんと自信がない。ただ、あるとき気がついたのは、きっかけさえあれば、存外思い出せることもある、ということだった。なにかフックのようなものさえあれば、意識はしていなくても、体が覚えていることが、どこかから思い浮かんでくる。

例えば、日付とともに「シネマライズで『8人の女』を観た」という短い文がある。これを目にすると、ああ、そうだったその日、誰それと渋谷に出かけてこの映画を観たんだった。そのあと、確かどこそこでお茶を飲んで……など、書いていないことも自然と思い出される。その直前まで、もう何年も思い出したことのない記憶だ。

もっとも、そうして想起される事柄が、正しい記憶であるかはわからない。時には偽記憶というか、のちに変化した記憶である可能性もある。とはいえ、そんな文でも目にしなかったら思い出すこともなかったような何事かを思い出す。

私は、過去のことをよく覚えておきたいというよりは、いま述べたような、記憶の働きに関心があるのかもしれない。

日記を書くとき、起きてからその時点までにあったことを、自分がどのように認識しているかも自覚される。

例えば、朝8時に起きて、日記を書こうとしているのが午前1時だとしたら、17時間くらいの時間を過ごした勘定になる。あれをして、これをして、こんなことがあってと、その間、自分は何をしたと覚えているのか。それを手短に書いてみるわけである。すると、17時間が数百文字に圧縮される。当然、たくさんの事柄がこぼれ落ちる。その間、世界中で生じていたはずのことはいうまでもない。自分がなにに注意を向けているのかが、否応なくわかる。

ところで、私には人に誇れるような特技の類がほとんどない。そんな中で、珍しく得意だと感じているのが、会社のミーティングなどの議事録を書くことだったりする。つまり、出席者の発言を手短にまとめる作業だ。これが嫌いではないのは、ひょっとしたら長年日記を書いてきたためかもしれない、といまこれを書きながら思い至った。

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