「役に立つ」という見方は役に立つか

なにかが役に立つ/役に立たない、という議論にはちょっと気をつけたい。

というのも、なにかが「役に立つ」とか「役に立たない」という場合、ほとんどはそう言っている人が、たまさかその時念頭に置いている目的に照らしてのことに過ぎないからだ。

例えば「文学なんて役に立たない」という人がいるとしよう。このとき、早とちりしてはいけない。この言い方は、あたかも一般的な主張のように見える。つまり「文学なんて、誰の、なんの役にも立たない」と言っているように見える。ひょっとしたらそう言っている本人も、そう思っているかもしれない。

だが、こんな時、こう問うてみるとよい。「文学なんて役に立たない」と言っているその人は、はてさて「役に立つ」ということで何を念頭に置いているのか、と。

例えば、その人が、文学は明日の糧を得る役に立たない、お金を稼ぐ役に立たない、と考えているとする。「そうだよね」と、これに同意する人は、おそらく文学によってお金を稼ぐという仕事に関わっていない。そのような状況にある人にとっては、なるほど確かに文学は、お金を稼ぐ役には立たないに違いない。だが、それは人類全員にとって当てはまるわけではない。

文芸誌に小説を書いて原稿料をもらっている人や、大学で文学を研究し、講義を行って給料をもらっている人にとっては、仮に「お金を稼ぐ」という目的から見た場合、文学は役に立っている。あるいは、文学作品を読んで、救われた気持ちになった経験がある人にしてみれば、そう思うかどうかは別として、文学は役に立っていると言えるだろう。要するに目的次第である。

なにかが役に立つか立たないか、という議論では、人がどんな目的に照らして話をしているかを確認したい。どんな対象であれ、目的との組み合わせによって役に立ったり、役に立たなかったりするものだから。というのは、私がしかつめらしく言わずとも、誰もが知っていることだろう。

しかしSNSなどを見ていると、どういうわけか、「XXは役に立たない」と言いたがる人をちらほらお見かけする。こういう物言いを見かけたら、「XXは、ただいま現在その人が念頭に置いている目的に照らすと役に立たない」と読むのがよい。そして人が抱く目的というものは、時や場所や状況によって、いくらでも変わるものだ。

また、場合によっては、本当は自分も世話になっているのに、気付いていないだけ、理解していないだけ、なんてこともある。三角関数がなんの役に立つか分からないという人はその例である(グレブナー基底大好きbotさんによる小説「三角関数禁止法」を読まれたい)。

本当は役に立っていることに気付かないという状態は、いまの自分の生活が、どういう人やもののおかげで成り立っているかを想像しないために生じるものだ。例えば、あなたが手にしているスマートフォンは、世界中のどこの誰によるどんなアイデアや設計や製造や運搬や販売やサーヴィスの上で成り立っているだろうか。そこには、どんな知識が寄与しているだろうか。もし、そうした次第を理解している自信がないなら、おいそれと「三角関数なんて役に立たない」と勇ましく断定するのは待ったほうがよい。

なんの役に立つかと関係なく、ただ面白そうだからと思って買っておいた本が、後日図らずも役に立ってしまった、ということを幾度となく経験すると、「役に立つ」というものの見方はあまり役に立たないということが身に染みて、こんなことをつぶやきたくなったりもするのである。

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