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21.01.25 和製エンタメの本質ってなんだろうと仮説を立ててみた。
こんばんは。八雲辰毘古です。ふだんは『小説家になろう』で創作しているアマチュア創作者でございます。
先週は全然投稿できてませんでしたね。すみませんでした。週末に掛けてグッと体調不良になっており、思考停止しっぱなしでした。
あんまりサボっていると癖になってしまうので、今回はサクッと書いてしまおうと思います。
今回は「和製のエンターテイメントの本質ってなんだろう?」という仮説レベルのお話を書いてみます。
ここであえて「和製」と書いているのは、検証の範囲が国産の小説、漫画、アニメに限定しているからです。ハリウッドの映像・脚本論やユング派心理学、文化人類学の要素を加味すると違った結論になりかねないので、一旦ここでは除外してのお話にするつもりです。
また、ここでのお話は仮説に過ぎないので、「そういう考え方もあるんだなあ」というレベルでご理解いただけると幸いです。いったん書くけど、書けば書くほど勉強不足と研究不足を嘆く羽目になりました(汗)。
導入部.いきなりなんでこんな話になったのか説明しないとあかん気がする
原因を遡るとキリがないのでサクッと話すと、最近「忍者もの」を研究し始めたことがきっかけです。これは大きく遡ると3つの潮流があり、立川文庫の系譜、『柳生武芸帳』から白土三平的な「忍ぶもの」の系譜、そして山田風太郎から『伊賀の影丸』へ至る「異能バトルの起源としての忍法もの」のあたりがくんずほぐれつしながら今に至っているとみてください。
このうち、最後のものは夏目房之介さんが強く推している論で、「超能力バトル漫画」の根本は横山光輝の『伊賀の影丸』にあるとするものです。この『伊賀の影丸』が山田風太郎の『甲賀忍法帖』に強くインスパイアされたものらしく(※裏付けなし、夏目房之介氏などの個人研究のブログを参照しているから間違いではないと思う)、一小説書き、エンタメ作りに興味のある人間として、この論には強く魅せられるものがあり、早速検証に入ったのがことの始まりでした。
実際、Pixiv事典などで「異能バトル」を検索すると、異能バトルものの原点を山田風太郎の『甲賀忍法帖』(せがわまさきによる漫画、及びそのアニメ化である『バジリスク』は主題歌ともに知名度がある)だとする見方で定着しているらしく、だとすれば『とある魔術の禁書目録』からこの方のライトノベル由来のバトルアクションや、その前身としてのジャンプ漫画にもこの血が流れているとみた方が良いでしょう。
とはいえ、この異能バトルものの話は別の話になるので、日を改めて行いましょう。
僕が今回する話に直接関係する部分は、上記の研究に派生して、山田風太郎の『魔界転生』を読み始めたことに端を発します。
『魔界転生』という作品は、徳川3代目将軍:家光の時代が背景となっているバトルアクションものです。島原・天草の乱の参謀:森宗意軒の魔術によって蘇生した7人の剣豪を相手に、柳生十兵衛が死闘を繰り広げるという話で、なんとまあ壮絶なファンタジー。
これは、ジャンル用語で「伝奇小説」とも言いますが、面倒な人は「嘘歴史ファンタジー」のことだと思ってください。歴史を題材に、とっぴな空想をねじ込み、冒険活劇にしてしまうジャンルの金字塔と言っても良いでしょう。特に『魔界転生』は、深作欣二監督に拠る映画化も強いインパクトを与えていますね。
この、「過去の偉人が蘇ってバトルロワイヤルする」という構造は、『Fate』シリーズの聖杯戦争にも通ずるところがあり、『魔界転生』もとい山田風太郎のもたらしたエンタメ因子は見かけよりもずっと大きく広く根付いていると考えてもらいたいです。
……それを今更のように読み始めたわけですから、見識の狭さを痛感しますね。とほほ。
んで、この『魔界転生』を読みながら、この起源探しをしていくと、やっぱりいろんなことに気づいていくわけです。今回はそのうちに、日本国内でもてはやされたエンターテインメント・コンテンツの大まかな共通項を、こういう風に考えてみた、という話にしようと思ってます。
序論.和製エンタメの本質は「怨念の浄化」ではないか、と仮説を立ててみる。
一言で書いてしまいましょう。和製エンタメの本質は「怨念の浄化」ではないか、と思ったのです。
多分そこまで真新しい説ではないと思いますが、検索してもそれっぽい話が出てこなかったので個人的に書いてまとめてみます。
まず、『魔界転生』の話です。この中で出てくる魔人たちは、皆歴史の表舞台で未練を残していることが示唆されます。
天草四郎、荒木又右衛門、柳生兵庫(如雲斎)、柳生宗矩(但馬守)、宮本武蔵、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜。流石に全員はフォローしきれないのですが、天草四郎や宮本武蔵は、歴史に名を残すにしても、歴史に覇を示しておらず、本懐を遂げきれていない存在ではあります。
この作中に現れる忍法・魔界転生も、「この世に強い未練があり、死の間際にあるものがうんぬん」とする条件が存在し、設定からして「怨念」を吸い上げる仕組みになっています。これを書いている時点では『魔界転生』のラストは読んでいないのですが、柳生十兵衛がこれらの「怨念」と真剣勝負を行い、心を動かされながら歴史に筋を戻していくのが大まかな流れだと予測しています。
この構造を看取してしまうと、実は和製エンタメの起源(ルーツ)としての「伝奇小説」が、ほとんど同じ構造でできていることが読み取れます。
例えば、直木賞の「直木」──直木三十五の代表的作品に、『南国太平記』という小説があります。これは幕末を舞台にした島津家のお家騒動をモチーフにしていますが、呪術師や架空の剣士が登場し、江戸やら何やらを巻き込んで壮絶な戦闘を繰り広げます。
この作中で、島津斉彬を呪殺する呪術師がいるのですが、彼は「近代化が始まる日本」を前にした「滅びゆくもの」に位置付けられます。彼が殺す対象となる島津斉彬は江戸末期の日本に黎明をもたらす反面、古くから力のある日本のある側面を破壊するものとしても描かれており、ある種の「怨念」として際立つようにデザインされているわけです。
この直木三十五の作品、及び作品の作り方は後々にも引き継がれており、山田風太郎も、言ってしまえばこの範疇に入ってしまいます。この手法以前に重要な作風を打ち立てたものがあるとすれば、大佛次郎や中里介山、白井喬二、国枝史郎に踏み込むことになりかねないです。が、そこまでいくとやっぱり僕の勉強不足が祟って語りきれないので、いったん置いておきます。
本論部.仮説に色々当てはめてみる。
怨念ものとして和製エンタメを位置付けた時、まず江戸期の大作『南総里見八犬伝』が、犬と女をめぐる巨大な怨念を浄化していく大河ドラマであると解釈可能です。
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