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21.02.26 【週末の立ち読み・続 #3】さわる、ふれる、把握する──ジャン・ブラン『手と精神』中村文郎訳(法政大学出版局)を読む

 手は人間らしい器官である──という命題は、別に手フェチでなくても、表現にこだわりを持つ人だったら、いつのまにか辿り着くことなのかもしれない。
 僕たちはよく、物事をよくわかったと思うとき、「手に取るように」わかると言い、状況ですら「把握する」ことができる。仕事をするときは「手を動かす」し、行動の速さを指して、「先手」だ「後手」だと言う。生活手段という意味の「活計(たつき)」ということばは、「手付き」のことである……などなど、僕たちは、その常套句の中にさえ、手の影響下にあるざるを得ないのだ。

 この命題については、実は古来から盛んに議論されてきた。アリストテレスは『動物誌』の中で、人間の手について詳述している。「手は爪にも蹄にも角にもなるし、鋸や剣やその他どんな武器にも、どんな道具にもなりうるからである。手は何でも掴んだり、持ったりすることができるから、何にでもなれるのである」。
 他にも、古代ローマの医者ガレノスは、その人体の教科書にまるまる一章分も手についての記述に費やした。神学者も手について考えたし、哲学者は言わずもがなである。進化論者もまた、手の発生を自然選択という用語に絡めて、歴史的に獲得されたものだと説明したものだった。アダム・スミス以来、経済学は気まぐれな見えざる手に振り回され続けたと言ってもいい。

 このように、今回は《手》にまつわる書籍、ジャン・ブランの『手と精神』を紐解きながら、近刊の話題書、ダリアン・リーダーの『HANDS 手の精神史』(左右社)、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社メチエ)などを参照しながら、非接触の時代における接触について触れていこうと思う。

導入部.手作りなもの

 われわれは、一方では始源的なものの探究の核心そのものに、また他方では人間の運命をめぐるあらゆる思弁の中心に、手を再び見出すことになるだろう。
 なぜかというに、手の歴史は、結局、歴史に対する人間の支配の歴史だからである。
 ───ジャン・ブラン『手と精神』p66より引用

 手作りの料理は、何だか冷凍食品よりも美味しそうに思える。買い置きの惣菜よりも、実際に手を動かして、包丁で食材を切った方がそれっぽく思えることがある。
 ゲームは観ているだけではつまらない。実際にコントローラに触れて操作しないと楽しみの半分もわかりはしないだろう。プレイ動画を観てるだけでは辿り着けない体験が、そこにはある。

 読書は紙の本が一番だ。スマートフォンやタブレットで文字を読むと、目が疲れる。ただ、紙の本は重い。その重さが良いのだという人もいれば、それが煩わしいのだという人がいる。
 今どき、手書きの文章なんてダサいだろうか。字の綺麗さだけなら、デバイスに任せてしまえばいい。そう思うだろうか? しかし、時折見かける手書きの文章に、その人の性格や気持ちを伺わずにはいられない。そういえば、古い日本語では文字を「手」と言っていた・・・

 これらは現在の《手》の物語である。

 古今東西において、手のない生活など存在しなかった。周囲を見回してご覧なさい。どこかに把手があり、手を入れる場所があり、手に取るサイズのものがある。そもそも、この文章を読む媒体からして、手で持つか、手で動かすかのどちらかを想定して作られたものだろう。
 アンドレ・ルロワ=グーランは、その著書『身ぶりと言葉』(ちくま学芸文庫)で、人類の歴史を「手と顔の解放」と表現してみせた。それは手による身振りの拡張と、食事の改善と歯の簡素化に伴う顔の変化が、頭脳の拡張の余地を広げたことの指摘に他ならない。手はやがて、石を掻き、絵を描き、文字を書いた。ものを持って壊したり、投げたりする動作を道具や機械に託して行った。文字と技術は、手の産物なのである。

 ゆえに、僕たちは抽象的なものを考えるとき、手にまつわるメタファーを用いて理解の幅を広げる。
 例えば、「手がかり」を「掴もう」とすること。重要な論点を「指摘」すること。揚げ足を「取っ」たり、「手を合わせて」祈ってみたり。時に難題に出くわしたら、「腕を組み」、「手を拱いて」みる。そして、「手隙」の際を狙って、「手際の良い」ことをする。
 人類最初の労働は手仕事だった。具体的には木を切り、幹から削り出し、棒を握り、振りかざす。糸をつむぎ、布を折る針仕事だったこともある。まあこのように、手が関わってきたあらゆることと、それに関する考察を深めていけば、いつしか人間の精神についての哲学になってしまうのだ。

本書の要旨.手はいかに精神を作り上げてきたのか?

 本書は2部構成になっている。

 前半の1部では、過去の哲学者や生物学者(特に進化論者)などが、《手》に対してどのような知見と考察を持っていたかを並べる。それだけではなく、古代の手相占いから占星術への関連や、仏教やヒンドゥにおける「印形」にも言及している。もちろん、宗教における神の手にも、である。
 これらの要素をやや個人的な解釈で整理すると、大きく4つに分類できる。
・目的論としての《手》──体系
・進化論としての《手》──歴史
・読むものとしての《手》──手相
・神々の持つ《手》──超越者の意図

 これらを見合わせ、見比べることで、《手》の特性を探求する。

第一部.把握と理解

・目的論としての手の体系

 手は自然が与えてくれた特性である。それは人間と他の動物を決定的に分別するものであり、したがって、道具やそれを作る技術は、人間にのみ与えられた本能のようなものである。
 この考え方は、ある意味では、人間は自然よりも下にあるとする見方に通じる。これでは人間の理性が浮かばれない。科学や技術が、手で書く言葉や文学・哲学が進歩するにつれて、それでは物足りないのである。手はいつになく、自然を切り開き、自然を理解し、自然を克服できるようになった時、違った立場で《手》の位置付けを考えるようになった。

・進化論としての手の歴史

 それが、手は進化の過程で獲得した特性である、とする進化論の解釈だ。これは一見すると、進化論の無神論的な側面からすれば、上記と差はないように見えるかもしれない。
 しかし、進化論は人間の手すらも、いったんサル以前のどこかで身についたものだと看做した。とすれば、人間はいつかの祖先から《手》を形成し、遺伝に遺伝を重ねて、現代まで受け継いできた事になる。それは、既存の身体として、あるいは体系として考えられた《手》よりもダイナミックな厚みを──つまり、歴史性を帯びたものになる。これによって、過去からではなく未来に向かっても、手が伸びるようになる。未来は手を伸ばして掴み取るものへと変化したのである。

・手相を読む(運命を握るもの)

 さて、未来を掴み取るというのであれば、手相占いもまた、手と精神においては重要な要素を持つのではないか。
 冒頭でも述べた通り、手のない生活などありえない。だとすれば、手はもっともその人の生活に晒された部位でもある。そこには種としてではなく、個としての歴史──いわば、民俗学としての歴史が埋め込まれているだろう。手相とは、まさにこの個人化した生活の時間を読み取る試みに他ならない。肌身に刻まれた生活や造作の痕跡を、さながら化石を発掘し、地層の年代を特定するがごとき類感的な推測で、これを読むのである。

 このように、手は、腕を介した空間的な把握だけではなく、時間的な把握も実行しうる。それは個人の過去と未来を示す物として──運命を握る手の表象をも浮かび上がらせる。

・救いの手、鬱ぎの魔の手

 そして、ついに宗教的・形而上学的な《手》の存在も仮定することが可能になる。
 神はさながら粘土を捏ねるようにして、人間を作ったという。だとすれば人間は神の操り人形として、天上から垂らされた糸(=運命)によって操作される存在である。そこには神の見えざる手が垣間見える。

 キリスト教だけではない。手は魔除けにもなる。古代の王の癒しの手や、呪術を祓うために手振りや印形が組まれるのも、救いを求める《手》の一種に他ならない。ついでにいえば、これは本書に書いていないことだが、手は何かを塞ぐこともできるはずなのである。

第二部.触れることによる認識

 把握の器官に過ぎないものに還元するのであれば、手はもつことの器官と定義することができる。なぜなら、握ったり、与えたり、受け取ったり、交換したりする人間の諸操作を宰領するのは、手だからである。
 ──同書p110より

 ジャン・ブランは、手の機能を《把握すること》と、《触れること》の2つに分けて考え、これを詳述している。
 引用箇所ではさまざまな用途を紹介しているように見えるが、その実、手を握っているか、開いているかの差でしかない。物を《持つ》ということは、その把手や物体を《把握する》ことと同義である。ただ、《触れる》については、こんにち新しい目線で考えた方がいいかもしれない。

 伊藤亜紗の『手の倫理』では、手による触覚的なコミュニケーションのあり方に「触る」と「触れる」を分類している。これは、
・触る=一方的な接触
・触れる=双方向的な接触
 を意図した分類法であり、後者においては、ジャン・ブランもまた、手に物に触れれば、同時にその手は触れられている、という表現で明言している。

 一方で、物を持つ=把握しているという動作は、掌握しているということであり、所有や支配の要素を強くしている。握っている間はこぶしは固くなり、横に振れば暴力にもなりそうだ。しかし、握っている間は、その手は自由ではないのである。
 また、これはあまり大きく取り上げられていないが、指を立てること、指で指すこともまた《手》の産物だろう。

 このようなさまざまな手振りが、いかにして世界を把握し、物事を名指しし、ふれあいを求めるのか。手振りの認識論に至って初めて、手が人間の精神や世界観をいかに築き上げたかに迫っていく。二足歩行をする人類はいかに目で見るのではなく、手足を通じて周囲の実存を把握するのか。また、その行為はやがて絵画や書写、陶芸や彫像におけるタッチの概念にまで発展し、それを鑑賞する人間が目ではなく手で、つまりその心に触れる(※タッチは英語で「感動する」を意味する)までも描き出す。
 まさに《手》は腕に備わり、周囲をさぐることを通じて、目で見るのではなく、まさに触れることによって、世界の距離と世界そのものを体験するのである。

脇道.物語における《手》について語ってみた。

 かつて、異風祝というWeb小説企画で、那識あきら先生の作品を評してめちゃくちゃ熱く《手》について語った回があります。
 そこでも『手の倫理』と『HANDS 手の精神史』を傍証して語りましたが、今回はこの2書では補いきれなかった根本的な要素を抑えることができました。特に印形や手相を通じた《手》の読解は、ファンタジー小説の要素として捉え直すことも面白いかと思いましたね。

 手の倫理、という本自体は、障害者への接触をめぐるコミュニケーションの倫理を扱います。しかし、これは身体を持った誰かだけではなく、SNSや通話などの《手》を介したコミュニケーション全般にも応用が効く内容でしょう。

 また、『HANDS 手の精神史』は、「人間は手持ち無沙汰を恐れる」というテーゼがうまく響いてきます。文学や精神分析の文献も当たっているので、補填としても強くおすすめできる内容です。

結論.非接触時代の接触論

 触れることは、他性の意識を含むだけでなく、諸意識が活動する場をなしている距離を停止させようとする欲望を伴う。その距離というのは、諸意識に対して先在する一種の枠組というよりは、諸意識の現実存在そのものを、それらが相互に疎隔されるかぎりにおいて、出現させるものである。距離は、何だかわからない空間の一特性と言ったものではない。それは《人間》の存在次元なのである。
 ──同書p116

 さて、本書の要旨部分では、さながら人間の世界把握にいかに《手》が関わってきたかを書いてきたものの、本書は同時に《手》の不可能性についても語っている。
 それは、手は触れることはできるが、触れたものに押し返されるということだ。

 チャールズ・S・パースというアメリカの哲学者がいる。この人は、物事を3つのカテゴリに分類して、記号論の基礎を作った。
1.単独で成立する性質的なもの(自由、新鮮さ、など)
2.他者ありきで意味をなすもの(色=誰かが見ることで現れる、音=誰かが聞くことで現れる、など。感情も含む)
3.他者との関係性から生まれるもの(解釈や比較のための言葉など)

 このうち、触覚は第二の項目に位置する。《手》は触れることで初めて他者を理解する。しかし、他者は手で押した力に抵抗することで存在をあらわにするのであって、それ自体の完全な理解は叶わない。
 《手》は、押し返されることで初めて理解しきれない他者を知るのだ。これをジャン・ブランは存在論的疎隔と呼んだ。距離、と言ってもいい。

 実にうまいことに、「触れる手によって、自我は他者へと向かう。触れられる手によって、自我は自己へと帰還する。この〈あいだ〉のうちに、世界のあらゆる距離があるのだ。」とジャン・ブランは書いている。
 だが、だからこそ《手》は他者理解の入り口にもなっている。例えそれが表面的なものであれ──表面的なものだからこそ、さながらコップになみなみと注がれた水面に、恐る恐る指を立てるように、閾をさぐるがごとく、探求の意志を囁くのである。

 さて、しかし──だ。

 こんにちでは、手があまりにも氾濫している。ウイルスの感染経路に接触が関わっているからと言って、アルコール消毒や手洗いを頻繁にやったとしても、接触のない生活などありはしない。手のない身振りはなんと貧弱なことだろう。僕たちはインターネット上でも足りない身振りを、顔文字やアスキーアート、画像や動画で埋め合わせているというのに、手も接触もない時代など夢物語なのである。
 直接ふれなければ、という意見もあるだろう。しかしそれこそが理想論なのだ。僕らは手を動かすことをやめられないし、今日もどこかでスマートフォンやタブレットを通じて、《手》の使い道を探している。それは外出自粛の世の中にあってなお、餌場を探して草原や森を手探りする類人猿時代の名残を引きずっているとも言っていい。

 だとすれば、僕らは言葉を用い、それを《手》で打ち込んでいる限りは(または絵や動画などで「手を動かしている」限りは)、誰かの領域に踏み入れ、誰かの心に触れるしかもはや仕様が無いのである。
 しかし、こんにちに至るまで、感覚的には理解されても、接触についての考察はあまり議論されたこなかった。あるにはあるかもしれないが、表現の世界で「心に触れる」ことの可能性と不可能性を同時に検討することが、あまり見られてこなかったように思える。皆、指差すことと握り潰すことばかり喚き立ててきた。何をどこまで、どのようにすれば適度に触れ合えるのか、接点を求めることを怠ってきたのだ。だから、いつしかある一定のジャンルの話題には「触れない」ようにし、「触らないでください」と一方的に通達し、時折間違えると、「触るな!」と炎上してしまう。

 この繰り返しでは、差し障りしかない。触るとは障ることなのだ。接触によるコミュニケーションが、距離を詰めることがややもすれば「感染」をもたらし、「健康を侵害する」かもしれないとなった時、僕らはだからと言ってコミュニケーションにおける接触不良を完全に排除できない。
 むしろ、接触不良がないコミュニケーションなど、なんなのだろう。ノイズや脱線のない物語は、ただのプレゼンテーションでしかない。とすれば、斯様な世の中で物語を語ることには、これまでとはまた違った意味と問いを用意しなければならないのではないか。

 かつて、物語の担い手だった詩人たちは、同時に楽器を演奏する演者でもあった。身振りと手振りとリズムを用いて、物語を降ろす役割を担っていたのである。
 では、文章を書くことも、読むことも、かつて岩にしるしを「掻いて」いた頃の名残を持つのであれば、僕たちはまだ、言葉で何ができるかについて考察を重ねる必要があるだろう。

次回予告

 次回は余裕があれば健康や医療哲学について論じた本を紹介したいと思ってます。
 ダメそうだったらエッセイかアニメ考察を書く予定。

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『小説家になろう』サイトにて、
ファンタジー冒険小説を連載してます。

双子の主人公、消えた父親とその記憶。
魔女狩りの絶えない社会、
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そして、隠された両親の秘密。
近さと疎ましさの錯綜する関係性。
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