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21.01.08 【週末の立ち読み・続 #1】僕らは何から距離を取るべきなのだろうか? 〜カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの眼 距離についての九つの省察』竹山博英訳(せりか書房)を読む(※有料エリアあり)〜

 こんばんは。八雲 辰毘古です。ふだんは『小説家になろう』で創作しているアマチュア創作者でございます。
 『なろう』側では小説などエンターテイメントを提供しておりますが、こちらではその過程で得た知識や発見を提供するエントリを、週3回(月・水・金)、17:00〜20:00の間で投稿しております。

 今回は、ひさびさの【週末の立ち読み】企画です。この企画は僕が読んだ本を一冊を紹介し、その内容を個人の解釈で要約し、個人的な感想を続けて記述するというものです。正確な記述・内容が気になった方は、図書館なり書店なりでお求めくださいますよう、お願いします。
 年始の1冊目は、普段みなさんが読まれないであろう、しかし思わぬ形で現代に重要な意味を持つだろう書籍と著者とを紹介します。

 タイトルにあるのですが、カルロ・ギンズブルグの『ピノッキオの眼 距離についての九つの省察』(せりか書房)です。

導入部.カルロ・ギンズブルグという凄い人

 カルロ・ギンズブルグはイタリア出身の歴史家です。歴史家といっても僕たちにわかりやすい大事件や歴史的人物を研究するのではなく、ミクロストリアという、非常に小規模で限定されたできごとを扱う分野の人です。例えば、『ベナンダンティ』では16世紀から17世紀のイタリア北東部フリウリ地方の農民たちの民俗を、『チーズとうじ虫』では副題にもある通り、16世紀のフリウリ地方の、ドメニコ・スカンデッラ(メノッキオ)という粉挽き屋に取材しています。しかし実際には一つのテーマに関連してさまざまな歴史的事実や言動録に取材し、さながら歴史の始原にまで遡って、思わぬ驚きと関連性の示唆を伴って、歴史に光を当てています
 個人的には、魔女狩り告発の言説に関する研究成果──『闇の歴史 サバトの解読』を非常に楽しく読みました。この本はその副題から連想する以上の広い展望を持って、中世におけるサバトやユダヤ人虐殺の事例からユーラシアの神話の原型や御伽噺に頻出するモチーフ(片足を引きずる高貴な存在、または片方のサンダルを失くす英雄・ヒロインたち)すらも指摘するほどの広くて深い研究を示しています。

 一般的に、歴史研究は普遍性という概念や、国境や文化を越えたイメージの類似性の指摘、シンクロニシティ(同時多発的な現象に深い意味を求めること)を嫌います。それは例えばヘブライ文字と神代文字の類似性とか、織田信長の肖像画がイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノと瓜二つだとか、そういう話が持つ根拠の薄い(ともすれば陰謀論・オカルト的な)話題を引き合いに出すとなんとなく伝わるでしょうか。
 仮にそういう話題を丁重に排除したとして、例えば魔女狩り告発に関して各地の言説で用いられるモチーフ(箒にまたがって飛び、夜な夜な悪魔と乱痴気騒ぎするなど)や、イギリス王の葬儀とローマ皇帝の葬儀の表象の類似点などはあまり歴史学の枠では捉えられないきらいがあります。本の中の言葉を用いれば、「非常に異なった文化に属する儀礼を比較するのは、歴史的観点から『安易で、不毛に』見え」るし、ギンズブルグも他の歴史家の言葉を引用しながら、「『文化人類学的観点からその類似性は刺激的だ。だが歴史的関連は弱い』」という自身の立場のアンチテーゼを記します。しかし、ギンズブルグは逆のアプローチで試みるのです。

 私は文化を超えた類似性が、出発点となった現象の特殊性をより深く理解する助けとなることを証明しようと思う。これは困難な道で、あまたの時間的、空間的往来を必要とするだろう。
 ──カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの眼』p127 第三章「表象」より

内容.要点を3つほどまとめてみる

そもそもどんな本?

 一言でいうと、論文集です。副題の通り、9つ入っています。《距離》という共通テーマを持った論文なのですが、古今東西の哲学者や美術史や宗教文献や文学などを歩き回るため、多彩で多層的な厚みを有します。
 その個々の観点において、学術的にどういう意義があるか、どう著者の関心を惹きつけているかは「訳者あとがき」で書かれていることなので、ここでは深く書きません。しかし、《距離》という言葉を聞いてピンと来る人は少ないと思われるので、そのことについて簡単に説明します。

「世界はどこでも同じ」であるとは、「誰もがそれぞれ異邦人である」と言い換えられる。
この視点からギリシア人の神話理解、ユダヤ人の偶像崇拝禁止、それに反対したキリスト教の二千年の歴史の中に、現実を批判的に見る「距離」を発見し、自らのユダヤ出自を異化することで新しい「歴史的眺望」を獲得する。
──同書表紙 あらすじと思しき説明書き

 いきなり情報密度の高い表紙ですね。どこから説明すればいいか迷いますが、まずはカルロ・ギンズブルグ自身が、実はユダヤ系の家系にあることを指摘しておきましょう。
 厳密には宗教教育を受けていないなどの理由で、ユダヤ人ではないのですが、その背景からキリスト教社会において自分が「異邦人」であるという感覚をどこか背負っています。自身も序文の中で「私のユダヤ人としてのアイデンティティは、迫害の結果である」と書いています。続けて、「私はほとんど自覚なしに、自分が属している多重的伝統について考察し始め、それを遠くから、可能なら批判的に見るように努めた」(註:太字は引用者)とあります。

 このことから、2つのことがわかります。1つはギンズブルグの興味としてユダヤ・キリスト教世界の持つ多重性・複雑性に関心があること。もう1つが自分があるまとまった世界の中にいながら、そこから《距離》を(望むと望まざるとをかかわらず)取って物事を眺め、それが歴史家としての方法論にもなっているということです。「異邦人化」という概念は、後者のいわゆる「世界にありながら、世界に属さない」という《距離》の隠喩に属するものなのです。
 ここに、さらにギンズブルグは、1988年からロサンジェルスで教鞭を取るようになったことで考え方を改める必要を感じたことを書いています。実際の序文ではロサンジェルスの話が先で、自らの出自の話が後なのですが、アメリカで教えている学生が人種、性別、年齢に基づく価値観や生活習慣の違いから、これまで教えてきた方法とは違うものを考えさせられた、と書いているわけです。

 ここでようやく、グローバル化しつつある時代に対して、反駁するように「つまり最近の研究では、文化的帰属性に結びつくとされている親密性が、重要な判断基準にはなりえない」と結論づけます。

「世界はどこでも同じ」という言い方があるが、それはすべてが同じということではなく、われわれすべてが何ものか、あるいは誰かに対して異邦人化しているということを意味する。
 ──同書p7-8

 つまり、大胆に比喩を持ち込んでしまえば、インターネット上で皆スマートフォンを用い、TwitterなりFacebookなりTikTokのアカウントを持とうと、そこから見える他者(自分以外の誰か)は価値観を同じくする仲間ではなく、生い立ちも環境も受けてきた教育も全然違う他人であり、いつしかそういうものを浮き彫りにして、孤独なり孤立なりをもたらしうるということでもあると、僕は解釈します。つまり、《距離》という概念は複数に解釈できるわけですが、思考の起点となる部分は「他者との関係性(心理的な間合いや理解の隔絶など)」だと思ってもらえれば良いと思います。
 もちろんこの比喩に飛躍があることは承知の上です。そのため実際には手にとって読み、考えることが必要なのだろうと思っています。以降は僕自身の理解を書きますが、すでに興味が湧いた方は、Amazonなりなんなりで購入をお薦めいたします。

個人的要点その1.言葉とかたちが真実に近づくこと(「差異」としての《距離》)

 では、ここから先は僕が一読者として9つある論文を「3つの要点」に意訳して展開します。

 その第一は「真実との距離感」です。これは個人的に第一章「異化──ある文学的手法の起源」から第五章「偶像と図像──オリゲネスの一節とその運命」までを包括するポイントだと思いました。

 導入として、ユダヤ教の『十戒』(モーセのあれですね)の最初の2つに記されている「いかなる偶像をも禁ずる」、「神の名をみだりに唱えるべからず」ということを念頭に置くとわかりやすいでしょうか。
 この2点は言ってしまえば「神様は絶対の存在だから、特定の名前で置き換えようとしたり、似顔絵や十字架アイコンのような(神様の具体的なかたち)を設定したりするのは冒涜的な行為だ」とする戒めです。それはすなわち、「言葉」と「(絵画の図像表現や表象に代表される)かたち」が、真理の世界に近づけるのか(または近づかせてはならないのか)? というテーマを持っているわけです。

 特に、第二章「神話」ではプラトンの神話論を引き合いに出し、(スフィンクスやキマイラといった神話的怪物に代表される)虚構が、いかに真理を持ちうるのかと言うことを、当時の言説だけではなく、近現代まで拡張して神話の本質を抉り抜いています。
 一方で、第一章「異化」ではトルストイの文学などからある種の文学的技法がいかに「対象を異化(全く別物に見せてしまうこと)するか」、その文学的伝統がいつからどのように連綿と続いたかを記しています。トルストイの話を出すと親近感湧かないかもしれないですが、日本で言うなら夏目漱石の『吾輩は猫である』がやったことと同じです。動物(猫とか馬とか)や野蛮人と言う「他者」の目線を借りて、自分たちの文明や生活習慣を観察し、違った側面を導き出すこと──これは、歴史学が絶えず直面する問題にも間接的に結びつきます。

 他の章は、これが言語的表現だけではなく、宗教的な文献学や表象論、図像学に展開していったと考えてもらえればわかりやすいと思います。こうした言葉(テキスト)とかたち(図像・表象など)をどの立場で、どのような距離感で捉えるかで意味が変化していくことを俯瞰するわけです。

個人的要点その2.地域や時代を超えて価値観が近似し、相違すること(「比較」が生み出す《距離》)

 第二の要点は、「空間的・時間的な《距離》」です。こちらは第六章「様式──包含と排除」と第七章「距離と眺望──二つの隠喩」をまとめたものになります。

 第一の要点と比べると、こちらはわかりやすいと思います。なぜならこちらの方が一般的な意味での《距離》に近いからです。ルネサンス期の美術様式を指して歴史家(または美術史家)がある一定の時期の芸術家を全てまとめてしまうかと思えば、作風と年齢を理由に別の様式にカテゴライズすることもあるのを指摘する第六章「様式」。そして、歴史に望むものとして当事者意識の強い主観的な「記憶」と、客観的な「歴史」の区別から始まり、歴史的眺望を論じる第七章「距離と眺望」。
 第一の要点と比べると、こちらはわかりやすいと思います。なぜならこちらの方が一般的な意味での《距離》に近いからです。

 ルネサンス期の美術様式を指して歴史家(または美術史家)がある一定の時期の芸術家を全てまとめてしまうかと思えば、作風と年齢を理由に別の様式にカテゴライズすることもあるのを指摘する第六章「様式」。そして、歴史に臨むものとして当事者意識の強い主観的な《記憶》と、客観的な《歴史》の区別から始まり、歴史的眺望を論じる第七章「距離と眺望」。
 特に後者はこの論文集のメインディッシュにも近く、ギンズブルグの(ユダヤ的出自との、そして歴史家としての)アイデンティティにも関係する論旨が展開します。それは過去を見る立場として、どのような距離と立場で歴史を、記憶を見るかという問題意識に支えられているように思いました。

個人的要点その3.政治的・社会的なものを自分に近づけて考えること(「親近感」という《距離》)

 最後の要点は、「親近感」です。これは残りの2つの論文、第八章「中国人官吏を殺すこと──距離の道徳的意味」と第九章「ウォイティラ教皇の言い違い」をまとめてみたものです。

 主な内容は第八章が語っていますが、タイトルが示している通り、もし(西欧の住民にとって遠方の他所ごとである)中国人官吏の殺害事件をどう受け止めるかの問題が議論されています。一方で、文学作品中の家族内不和のエピソードと表現を抜き取り、空間的・時間的《距離》がそのまま共感や親近感と言った要素に影響することを指摘します。文中にもある通り「過度の距離は無関心を呼ぶ。過度の近接は、同情も、抜き差しならぬ敵対も生じさせる」と言うわけです。
 ドローンの戦争利用やインターネット時代のこんにち、この観点はより思想的に深められるべきだと思いますね。

 またこれは人間的な距離感だけではなく、不安な時代や後悔から逃れたいとする感覚や、時間が経つにつれて過去を冷静に客観的に振り返られること、あるいは未来を楽観的に見るなどの要素に対しても、時間的《距離》の遠近が関与していることを指摘します。
 最終章でもある「ウォイティラ教皇の言い違い」は、宗教的な時事にて教皇の発言がもたらした意味の考察ですが、ユダヤ教とキリスト教を「兄弟」に準えたことに対する、聖書の内容を加味した解釈を展開します。親近感と言うにはやや牽強付会な部分があるかもしれませんが、個人的には比喩表現が関係性の上下関係や意味に影響する、と言う点で興味深い事例でした。

終わりに.時代とうまく距離を保つために

 さて、なんで今これを紹介するのかといえば、まさに現在、世界中で《距離》を取ることが求められているからなんですよね。

 パンデミックであると同時に、インフォデミックとも言われる現在、距離を取るべきは他者だけではなく、(僕のこの文章を含めた)あらゆる情報・表現・表象だとも言えるでしょう。そもそも忘れられがちですが、感染するのはウイルスだけではありません。不安やそれを掻き立てる観念・表象もリツイートやマスコミを通じて急激に拡散するようにできています。そういう時代・社会に僕たちは生きているわけです。
 「分断の時代」とも言われるこの頃、自国や自分のことばかり優先し、数字と化した感染者や画面越しの他者への共感や道徳心が鈍ることも《距離》の考察対象として非常に意味深いことだと思います。もっとも、これは今に始まったことではなく、過去から今まで見過ごしてきたことが急速に問題として可視化されただけ、というのが個人的な見解なのですが。

 こういう時、新型コロナだ、ウイルスだ、感染症の歴史だ、という観点でピックアップする書籍だけではなく、別の文献から有意義な考察を引っ張り出したかったのでこのチョイスとなりました。

 八雲辰毘古のnoteでは、毎週3回(月・水・金)、17:00〜20:00の間で皆さんの役に立つ読書情報や、娯楽作品を深く楽しむ思考法、日常生活の視野を拡げる雑学的な考察を提供しております。今回は長く書いていたので遅刻しました。すみません。

 今回は有料エリアあります。参考文献と自作のプロモーションの後のエリアで、500円をお支払いいただいた先で、「ソーシャルディスタンスという《距離》の概念の考察」を行います。政治的に多少センシティブな内容を含むため、それでも興味がある、知りたいという方のみ購入手続きを行ってください。
 万が一購入後に不満が残る、または支払った金銭に見合わないと判断された場合は24時間以内に返金手続きを遠慮なく実施してください。

 いただいた金銭につきましては、主に創作資料や参考文献の購入費に当てさせてください。今回のような読書情報として還元することもあれば、月末月初のエントリで購入した書籍リストを紹介することもあります。この辺りまだ手探りなのですが、ご協力いただけるとありがたいです。

補足・参考文献

書籍

ガブリエル・タルド『模倣の法則』池田祥英,村澤真保呂訳(河出書房新社)
アーサー・O・ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』内藤健二訳(ちくま学芸文庫)
スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い・エイズとその隠喩』富山太佳夫訳(みすず書房)
サンダー・ギルマン『病気と表象』本橋哲也訳(せりか書房)
パオロ・ジョルダーノ『コロナ時代の僕ら』飯田亮介訳(早川書房)
河出書房編集部『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房)

Webサイト・記事

ユヴァル・ノア・ハラリ「Web河出・『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏、 “新型コロナウィルス”についてTIME誌に緊急寄稿!」柴田裕之訳 2020.3.18公開
WHOホームページ「Coronavirus disease(COVID-19)Pandemic
CDCホームページ「Social Distancing, Quarantine, and Isolation
正木伸城「ダイヤモンドオンライン;ソーシャルディスタンスを「ヘイト」の理由にしてはならない理由 デフォー、ソンタグ、ジジェクで読み解く」2020.5.26公開
松岡正剛「千夜千冊コラム・ほんほん」2020.8.18掲載分(※直接遷移不可能なため、ページのコラム欄を遡ってご覧ください)
松岡正剛「千夜千冊1761夜 ダン・スペルベル『表象は感染する』」2021年01月06日公開

▼以下、自作プロモーション▼

『小説家になろう』サイトにて、
ファンタジー冒険小説を連載してます。

双子の主人公、消えた父親とその記憶。
魔女狩りの絶えない社会、
魔物が現れ、暗雲垂れ込める世界情勢。

そして、隠された両親の秘密。
近さと疎ましさの錯綜する関係性。
世界混乱の理由は、
人々が見落としてきた"あるもの"の中に。

──これは、失われたものを取り戻す物語。

『聖剣と魔女のミュトロジア』は、
こちらから読めます。

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※タイトルロゴは蒼原悠さま(@AzureFlag373813)に作成いただきました。

 ちょっとこのご時世で思うところがあり、プロット修正中です。もう少し更新はお待ちいただけると幸いです。

 それでは、以下有料エリアです。

私論の試論.「ソーシャル・ディスタンス」という、距離についての十番目の省察(※有料エリア)

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