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僕がニートになった話


僕が仕事を辞め、無職になってから3年がたった。

午前11時過ぎ。目が覚めると、シェアハウスの自室にあるベッドの中で一月の寒さに身を震わす。そのままベッドの中で猫のように縮こまりながら、寝ぼけ眼でスマホを開きTwitterを眺める。ニート生活をおくる僕の一日の始めに行う日課だ。

今日も色々なモノがTLに流れてくる。昨日とは違うニュース、変化するトレンド。芸能人のスキャンダルに、ミュージシャンの新曲。アニメにドラマの話題。政治に経済。教訓に批評。犬や猫の動画。誰かが死んでる。仕事にいきたくない知り合いの悲鳴。無職の知り合いたちの悲鳴……。


そんな元気よく溢れる情報の濁流を眺めながら、僕は「ああ、世間ではとっくの昔に一日が始まっているんだな」と実感する。自分の知覚する時間の流れと、世間に流れる時間の流れのギャップに毎日ちょっと戸惑う。

 基本的に家に引きこもっている僕は、外の時間とはまるで異なる時間の流れに身をゆだねている。みんなが起きる時間には起きていなくて、みんなが寝る時間には起きている。ご飯を食べる時間も決まってない。適当な時間になんとなく起きて、なんとなく食べて、なんとなく寝る。暇な時間はインターネットをしたり、本を読んだりしてだらだら過ごす。


 そんな生活をしていると外の時間の流れに鈍感になって、一日を一つの時間の塊としてとらえることが難しくなる。朝昼夜は連続性を失い、曜日感覚はどろどろに崩れていく。

 そんな自分の生活の現状に不安はないのかと言えば、正直ちょっと不安だ。ふとした時に世間に取り残されていくことへの焦りを感じる。

 だけどそんな生活を送る僕でも、もし「この生活を選んだことに対して後悔しているか」と、誰かに問われたなら全く後悔していないと答えるしかない。

 それは3年前、まだ大学生だった僕には到底言えなかった答えだ。3年前の僕は、みんなと同じ様に就活し、就職し、スーツを来て仕事にいくことに何の疑問を持たなかった。
 その行為を苦痛だと思うべきではないと思っていたし、それが当たり前なのだと感じていた。
 社会のいたるところにある非効率で意味不明な慣習にも目を瞑り、働くとはそういうものなんだと認め、諦めていた。そう諦めていたはずだったんだけど。
 あれから3年後の僕はまだ諦め切れずにもがいている。なんだか不思議だ。


 なんで僕がこんな生活を送るようになったのか。

 ちょっと思い返してみようとおもう。



〇〇〇



 滋賀県某所、2017年の夏。僕はゴミ袋とホコリにまみれた六畳ワンルームの部屋で死んだように寝転がっていた。


 この頃の僕は不眠症気味で目は赤く充血し、目元にはクマが浮かんでいた。髭をぼうぼうに生やし、風呂は数日に一度入るか入らないか。そのせいで体から少しすっぱい臭いを放っていた。
お金に余裕はなく、近所にあるドンキーホーテで買い貯めた賞味期限切れの半半額弁当(半額弁当がさらに半額になった弁当)とカビが生えてそうな40円の食パンをかじってなんとか生き延びる毎日。
 まともなモノを食べてなかったせいか毎日下痢を起こしトイレに篭ってばかりだった。
 顔に生気はなく、廃人のようにぼんやりと一日を潰していく日々が続いた。
 幻覚にも悩まされ、何が現実なのか妄想なのかもわからなくなるほど僕は精神的に追い詰められていた。

「パニック障害」。

  医者からそう診断された僕は、この頃勤めていた映像制作会社を自主退職した。
 事実上は「クビ」みたいなものだったけど。毎朝気分が悪くなり吐いては倒れてを繰り返し、映像の編集作業をしようにも手が震えてタイピングもままならない。そんな僕を雇い続けるメリットなんて会社側には全くなかった。
 そんなわけで僕は泣く泣く就職してまだ2ヶ月しかたってないその会社から出ていくことになったのだ。


 実はその二ヶ月前には、僕はまた別の会社を退職していた。同年四月に愛知で就職したその会社は、典型的なブラック企業だった。就職説明会ではワークライフバランスを唄い、「残業代は惜しまずしっかり出す」と豪語していたその会社も、入ってみれば化けの皮がすぐに剥がれた。
 サビ残は毎日欠かさず当然のように行われ、人手がなく教育もままならない現場では常に膨大な仕事に追われ社員は疲弊していた。
 毎朝四時半に起きて会社に向かい、夜遅くに帰宅する。週に6勤は当たり前。みんなイライラしていて、社内では職員同士の陰口やいじめが絶えない。

 他にもここでは書きたくないほど酷いことがたくさんあった。


 同期社員は入社して早々にリタイアしていく。僕も通勤中になぜか涙がでてきたり、胸の動悸や発汗がとまらなくなったり、急に体に力が入らなくなって道に立ちすくむようになったところで退職を決意した。
「このままだと壊れる」とそう思ったのだ。

 上司に退職届を出すと、「社会をなめるな」「この会社を辞めたあなたが、他の会社でも通用すると思っているのか?」とか色んなことを言われ罵られた。そんな言葉を聞いても僕はただひたすら耐えた。
 普段なら何か一つ言い返すこともできたかもしれない。
 だって考えてみればそもそも労働基準法もまともに守ってない会社に、
そんな偉そうなことを言われる筋合いはなかったのだから。
 けどその時の僕は酷く疲れていて、何かを言い返す気力すらなかったのだ。


 結局一時間近く説教をされても退職をやめる意思をみせない僕に上司の方が折れた。
 その後はつつがなく退職手続きが行われ数日後、僕は無職になった。


 大変だったのはその後だ。入社してわずか一ヶ月で仕事を辞めた僕に両親は怒り狂った。

「育て方を間違えた」

「なんでこんな子に育ったの」

「何のために大学にいれさせてやったとおもっているんだ」

「おまえをここまで育てるのにいくらかかったとおもってるんだ」

「おまえに食わせてきた飯は誰の金で買っていると思う」

「自分たちが働く姿をみて何も学ばなかったのか」

「仕事はそもそもつらいものなんだよ」

「仕事が楽しいものだとおもったか」

「我慢しろよ」「甘いんだよ」「心が弱いやつだ」

「バカ野郎」「謝れ」「わたしたちに謝れ」「仕事を辞めたことを謝れ」

…、といった具合にだ。


 僕は心の底で、「両親は自分の味方になってくれる」という甘い期待を持っていたのだと思う。
 両親は息子が勤めていた会社はブラック企業で、すぐに辞めるべき場所であったことを理解し、受け入れてくれると思っていた。
 だがそれは違った。僕の両親はそういう人ではなかった。
 僕は自分の両親のことを何もわかっていなかったし、同時に両親も僕のことを何もわかっていなかった。
 そのこと気付いた僕はこの時、強い衝撃を受けたのだ。

 彼らの言い分には何かおかしいことがあるとわかっていた。      

 たしかにあなた達は僕を育ててくれた。たくさんのお金をかけ、僕に勉強できる環境を与えてくれた。それはとても感謝している。

 でも、僕の人生はあなた達を満足させるためにあるんじゃない。僕の人生はあなた達のモノなんかじゃないんだから。
 僕はあなた達が満足するために仕事をしていたんじゃないんだ。だから僕が仕事を変えようが辞めようがまったく関係ないじゃないか。

 だけどあの日の僕は、彼らの言うことに反論する気力はなかった。
 それほどに僕はこの一ヶ月の間に疲れ切っていた。
 僕はただただ、浴びせられる罵声を受け入れて静かに聞くしかなかった。
 悲しくて、虚しくて、涙が溢れて止まらなかったことを覚えている。

 最後に僕は父に土下座させられた。
「仕事をやめてごめんなさい」と。子供のように泣きじゃくりながら。頭を床に擦り付けて。

 父は土下座する僕をみて何も言わなかった。

 そしてあの時に僕は完全に心を病んでしまったのだと思う。



〇〇〇



「しばらく休養をとってください」

 

 そう言って医者は僕に精神安定剤を処方してくれた。

 「転職活動をしたいでしょうが、今のあなたはとてもそんなことをできる状態じゃないと思います。
まずはしっかり休んで薬を飲み、療養に専念してください。決して焦らず、ゆっくり治していきましょう」

 お医者さんの言葉はありがたかったけど、僕にはそんな悠長なことをしている余裕はなかった。
 転職先を決めなくては、すぐにでも実家から追い出されそうな状況なのだから。
 残された道は一つしかない。僕は医者の忠告には従わず、ボロボロの精神状態のまま転職活動を行なった。

 

 心身共にボロボロではあったけど、「あとには引けない」という極限の精神状態に置かれると人は思いもよらないほど力を発揮するようで、転職先はすぐに決まった。あれだけ就職活動に苦労した学生時代が嘘だったかのようにスムーズに仕事が見つかったのだ。
 それは僕が学生時代からの趣味で身につけた動画編集技術を活かせる仕事。映像制作会社での編集業務だった。

 仕事先は滋賀県。生まれてこのかた愛知でずっと過ごしてきた僕にとっては、それは大きな環境変化だった。
 不安はあったけど、自分が好きだった動画編集の仕事に携われることへの期待と、今ではもう息を吸うことも苦しくなるほど自分を追い詰める場所となってしまった実家から出ていけるという安堵感が勝った。
僕は最低限のお金を借り、そのお金で滋賀へ引っ越した。

 ここまで来ればもう両親に罵られることもない。残念ながら新しい職場でもサビ残はあったけど、その時間も前職と比べれば少ない。
仕事場は新しく借りたマンションのそばにあったことで通勤時間も減り、家で休む時間も取れるようになった。
ここでならなんとかなるかもしれない。
この時は僕もそう思っていた。

 だけどその変化は少しずつ現れ始めた。医者の忠告を守らず、無理に体を動かして転職活動を行なったツケが回ってきたのだ。
 さらに慣れない新生活と仕事の準備に追われて僕の心身はギリギリの所まで酷使され悲鳴をあげていた。
 その最悪のタイミングで滋賀に来る前に医者からもらっていた薬がなくなった。

 

 そして張り詰めていた糸がプツリと切れるように僕は倒れた。

 体は泥にはまったかのように重たくなり、思うように動かない。
自分の思考が上手くまとまらず、何事にも集中できない。考えれば考えるほど、悪い方向へネガティブに思考してしまう。
やがて僕は言い様がないほど激しい恐怖感と焦燥に襲われるようになった。


 「明日、仕事で失敗したらどうしよう」「上司に嫌われるかもしれない」「早く仕事をおぼえなきゃ」「もっと周りに気を使える社員にならなきゃ」「営業先に〇〇さんに迷惑をかけたかもしれない」「仕事中に交通事故を起こしてしまうかもしれない」「クビになるかもしれない」       「これから僕はここで上手く生活できるのだろうか」「僕はこのまま一人で生きるんだろうか」「僕はやくたたずかもしれない」
「僕に生きる意味なんてあるんだろうか」「なんで生きている」「つらい」「しんどい」「寂しい」「苦しい」「死んでしまうかもしれない」
「死んでしまうかもしれない」「死んでしまうかもしれない」

…といった風に。


 そんな被害妄想の嵐に襲われた僕は何度も吐いた。汗が止まらず、動悸は激しくなり、息を吸うことすら苦しい。
 そんな日がいつまでも続いた。なんとか這うように病院へ行き診断を受けると医者から「重度のパニック障害」と言われた。

「すぐに療養をとってください」「まず仕事は休んだ方がいいです」「診断書を書きましょうか?これを会社に出して休職してください」……   

 医者に言われた療養期間は二ヶ月。会社に行き診断書を社長に出すと、社長は厳しい顔で言った。

「今ここで決めて。君、この仕事続けられる自信ある?」

 長い沈黙の後、僕は小さな声で「ないです」と答えた。

 これが僕の人生二回目の退職になった。


〇〇〇



仕事を辞めた後もしばらくは滋賀で呆然とした気持ちのまま暮らしていた。
借りていたお金を少しづつ削って、生きながらえる日々。
減っていく預金通帳を見てさらに心は塞ぎ、ストレスで不眠と過眠を交互に繰り返す生活が続く。

 以下のツイートは僕の当時の様子。


あの頃のことは意識が朦朧としていて、今ではあまり思い出せない。


 そんな生活が数か月ほど続いて、ついに親が家に来た。
 再就職して以来、音信不通だった僕が心配になり旅行のついでに様子を見に来たらしい。
 ここ数か月退廃した生活を送り、まともな会話もままならないほど衰弱しきった僕をみてさすがの両親も「このままだとこいつ死ぬな」と感じたらしく、その日に実家へ連行された。
 衰弱していた僕は親に連られながら乗り込んだ愛知への帰りの電車で力尽き、床に座り込んで眠ってしまった。三日ぶりの睡眠だったと思う。


〇〇〇


「まだ仕事しちゃだめですよ。本当に」


愛知に居た時に通っていたメンタリクリニックにひさしぶりにやってきた僕に医者は呆れたように言った。ついでに診断された病名も増える。


「前来たときよりずっと酷くなってるね。もしよければだけれど……入院を薦めますよ」
 入院できるほどお金なんてなかった。メンタルクリニックや精神病を
ことさらに嫌う親からの援助も期待できそうにない。僕はいつも通り薬だけもらう。


 実家に帰り、食生活がまともになったことで最低限の体力は回復した。
だけどやはり、実家では精神病持ちで無職の僕に居場所は無かった。
親は僕が病院に行く度に、または病院でもらった薬を見る度に嫌な顔をした。
「その薬飲めば治るの?ほんとうに?無駄なんじゃない?」「病院に行ってこれだけ休んでもまだ仕事は探す気力もないの?」
彼らはいつもそんなことを言ってきた。「これでも私たちはおまえに気を使っているんだよ」、という風にうんざりした顔で。

 だから実家に帰ってきても一時も僕の気持ちは休まらなかった。

 はやくこの家を出なくては。そうしないとまた壊れてしまう。
そんな焦りのみが心の中にあった。


そんな時に、幸運にも、本当に幸運にも僕は祖母から「好きに使いなさい」と言って封筒をもらったのだ。
実家の近くに住む祖母は僕が仕事を辞めた後も、精神病になった後も急かさずいつも通りに接してくれた人だった。
祖母からもらった封筒には大金が入っていた。
僕は祖母に感謝して、お金と最低限の荷物だけもって実家を飛び出した。

その頃ちょうど世間は2018年を迎えていた。


〇〇〇


 実家を出た僕はいろいろな場所へ旅行した。
 がむしゃらに、めちゃくちゃにあちこちを歩き回った。
 居場所のない家から逃げるために、自分が住める家を探すために。
 そして僕みたいなボロボロになって社会に適応できなくなってしまった人間がどうやってこれから生きていくか、その方法を探すために、いろんな所にいって、いろんな人に会いに行った。
 行くあてもなく怖くて辛くて寂しい旅行だった。

 とぼとぼ歩きながら友人のたちの家や安いゲストハウス、漫画喫茶を渡り歩いてその日を過ごす。
 そしてTwitterから流れてくる情報を頼りに、自分と同じような人々が集まる場所へ巡り回る日々だった。

 ある時は東京に行きニートの支援活動を行っている団体が毎年開催している「ニート祭り」と呼ばれる奇祭に参加した。

 ある時は和歌山へ行き、山奥で男女十数人が集まって暮らしている「共生舎」(「山奥ニート」という名前でメディアでも話題になった)と呼ばれる変わった家にも訪れた。

 なんとなく修行したくなって四国を巡り歩いていたら川魚にあたり食中毒を起こして倒れたりもした。
 ちょっと元気がでたので名古屋の路地裏で怪しすぎるコワーキングスペースを始めたりもした。


 その後、鬱が来て全てが嫌になり現実逃避をしに沖縄に渡って数か月を過ごした。
 陽気な日差しが降り注ぐ美しい島の中で葬式に来たような死んだ目のまま過ごしていたら、他の観光客に自殺志願者だと勘違いされ心配されたりした。


 沖縄から本島へ帰った後、「NEET株式会社」という社員全員がニートで取締役に就任している変わった会社が新規取締役を募集していたのでなんとなく加入してみた。



 そして2019年、NEET株式会社で知り合った人が作ったシェアハウスに住むことになり、1年の放浪生活を経て僕はやっと腰を落ち着かせることができる家にたどり着いた。


その後は、シェアハウスに引き篭もってだらだら生活したり、東京でできた新しい友人たちと遊んだりしながら今日まで暮らしている。

以下、遊びの数々…


同人誌を作ったり、


エアバンド作ったり、



恐竜になったり、


その他いろいろ、



〇〇〇


 2020年になった。

 滋賀での仕事を辞めて以来、結局再就職する気は全く起きずにぼんやり無職のままだ。
 祖母からもらった封筒にはもうお金は残っていない。


 今年はどうやって生き永らえよう?

 ありがたいことに、今日まで知人から動画編集やら、代行業の依頼やらと僕でもなんとかできそうな仕事を紹介してくれてとりあえず生活の目途がたちそうだけど。まだまだその日暮らしな生活を送っている。


 でもあれだけ苦しかった病気も今ではだいぶよくなった。頼れる知人もたくさんできて、住める家もある。
 

 だから、まだやっていけるんじゃないかなと思っている。まあ、どうなるかわからないけど。


〇〇〇


そんなわけでみなさん、今年もどうかやくめかがりを、よろしくお願いいたします。










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