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30年生き抜いてきた、家族戦争。

あと三日で、私は30になる。

私が産まれたのは、1992年の8月18日。11時55分。
その年は空梅雨で、非常に暑い夏の日だったらしい。 予定日は9月だというのに、この日に母が破水、自力で産むことが難しく帝王切開で産まれてきた私の産声を、母は聞くことが出来なかった。熱にうなされ、意識がない中でのオペだったらしい。だから私のことを初めて目に出来たのは、意識が戻った次の日の事。

私の誕生は、望まれたものではなかった。私を孕んだ時、母と父は離婚会議の真っただ中。そんな中空気も読めず、私は出来てしまったのである。私は生まれる前から空気が読めなかったのだ。

私を産むことを、みなが反対した。父の金のだらしなさに、もうみんなが気づいていたからだ。きっと産んでも母が苦労するだけだろう、そう思ったんだと思う。母もおろそう、そう思ったらしい。

だけど、一人だけ、それに反対した人物がいたのだ。それが母の祖母、私の曽お祖母ちゃんである。

「命は粗末にしたらダメだ。」と母を諭したらしい。そのお陰で、母は産む選択を選んだ。だから曽お祖母ちゃんがいなかったら、私はこの世にいなかったのである。曽お祖母ちゃんに感謝半分、産んでほしくなかったが半分。

この話を聞いたのはつい最近。そうか、私って望まれて生まれて来たんじゃないんだな、と思った。それと同時に曽お祖母ちゃんがなぜ私をバカ可愛がりしてくれたのかも、わかったような気がした。

幼少期の私は、母と二人、仲良く過ごしていた。朝は母の自転車の後ろに乗って幼稚園に行き、夕方に迎えに来る母を楽しみに待ちながら先生の後をついて歩いて、母が迎えに来たらSMAPを歌いながら帰り、母と一緒に夕飯を食べる、というごくごく普通の日常を過ごしていた。父がいないことなんて、なんとも思っていなかった。

でもそんな日常をぶっ壊す、一人の男が現れたのだ。

母はその人を「海外に出張に行っていた、私の父だ」と言った。へえ、私にお父さんがいたんだと疑いもしなかったが、その父との生活は私にとって苦痛の日々のはじまりだった。

まず母を「ママ」と呼ぶことを禁止された。そしてひらがなと数字のドリルを買ってきては、書けなかったり分からなかったりするとオムツ一丁でベランダに放り出された。真冬の、寒い日だろうがお構いなしだ。

優しかったはずの母も、父の肩を持った。ベランダで大泣きしても、母は助けの手を差し出してはくれなかった。

暫くして、弟が出来た。弟が出来たのは嬉しかったし、弟のことは可愛かったけれど、みながみな手のひらを返したように「お姉ちゃんなんだから」ということを押し付けては、私に良いお姉ちゃんでいることを強要した。まだ当時4歳で、母に甘えたい盛りなのにそれも許されなかった。お姉ちゃんなんだから、一人で何でもできなきゃダメなのだ。

父と母は、いつも大きな怒鳴り声をあげながら喧嘩していた。夜中にその大きな声で目を覚ます。皿が割れる音や何かをバンッと叩く音が聞こえて、怖くて震えた。酔っぱらった父はもっとひどかった。酔うと家の中で暴れるので母は鍵をかけて家に入れないようにしたが、そうすると玄関が壊れそうな勢いでドアを殴ったり蹴ったりする。

そのうち、何かと理不尽な理由を付けては父が私を殴るようになった。母は止めたが、そうすると母が殴られる。そのうち、母はそれを見て見ぬふりをした。顔にあざが出来るほど殴られながら、私は頭の中の妄想で何度も父を包丁で刺した。血がつながってない父だというのにも、気づいていた。だからこそ余計に腹が立った。何故血も繋がらないやつに私は殴られ続けなきゃいけないのだろう。この人が死ねばいいのに、いなくなればいいのに、そればかりを願った。学校に行くのに痣がバレないように私の頬にコンシーラーを塗る母を見ながら、私が好きだった母はどこへ行ったんだろうと思った。

中学校に上がる前、父と母の別居が決まった。私と母と弟は、母方の祖母の家に住むことになったのだ。やっと父から解放される、と思ったら、今度は祖母と母からのプレッシャー攻撃を受けるようになる。幼少期から習ってたお陰で出来が良かった英語の、スパルタ環境下での勉強を強要されるようになったのだ。英語塾の先生からも期待され、私は先生と親族両方からのプレッシャーを受ける羽目になったのだ。アスペのため無駄に暗記力が良いので、他の教科も暗記することで解ける問題なら高得点を取れる方だったのでとにかく勉強勉強、勉強しろしか言われなくなっていった。弟はテストで悪い点とっても可愛がられているというのに、私はテストの点ひとつで責め立てられる。英検も受かって当たり前、テストで100点も当たり前、誰一人だって私のことを褒めてくれない、ちょっとでも反抗しようもんなら非難ごうごう。それでも我慢していた。父と過ごすよりはましだからだ。

でもある日突然、また父と同居することが決まった。「お父さんも心入れ替えたみたいだから、あんたもちゃんということ聞くのよ」と祖母は言った。ねえ、いったいどうして?私は一緒になんか住みたくないよと母に訴えたかったが、口を出す隙も無かった。また父と暮らすことを選んだ母を憎んだ。

父との暮らしが始まった、でも父は変わってなかった。相変わらずすぐ殴るし、すぐ怒鳴るし、もう怒るしか能がないような人間に見えた。

そんな中私は悪い友達たちと悪いことをして気晴らしをするようになっていった。悪い事すればするほど、心の中はすっきりした。段々学校にも行かなくなり、友達の家でタバコ吸って酒飲んでぐうたらする日々が続いた。非行に走る私を、父はただただ殴った。「お前が家にいるからこの家の空気が悪いんだよ!疫病神!」と言って私を罵った。殴られてむしゃくしゃする度に、私の腕にはカミソリで切った跡がついていく。それに気づいた母が、私に馬乗りになって首をしめた。「死にたいなら殺してやるわよ!」とヒステリックに叫ぶ母を見ながら、ああ、どうぞ殺してくれよと思った。最悪な毎日だった。毎日毎日死にたかった。

結局、母は私を育てることを放棄した。「私にはもう無理なの」と泣きながら実父に泣きながら電話する母をみながら、泣きたいのはこっちだよと思った。

実父は私を受け入れてくれた。「別に悪いことしたって良い。ハタチ超えて悪さされたら困るからな。好きなように生きろ」と父は言った。

私は英語からも、勉強からも、嫌いな父からも母からもようやく解放された。推薦入試が決まってた進学校を蹴って、前々から興味のあった服飾の学校に行くことを決めた。祖母は、そんな私のことを「破門だ、2度とうちの家をまたぐな」と言った。

大好きな洋服の勉強やデザインを学びながら、週7でバイトをする日々が続いた。忙しかったけど、自分のやりたいことをやれてる毎日が楽しかった。でもその日々も、長くは続かなかったのだ。

リーマンショックにより、父の経営する会社が2社も倒産してしまったのだ。父は毎日資金繰りに繰り出すようになったが上手くいかず、出資者が首を吊ったりして、ギリギリのところにいた。家の電気が止まり、ガスが止まり、水が止まり、借金取りが家のドアをたたき続ける毎日になっていった。

「ごめん。学費を払ってやれない。学校をやめてくれ」

そう言って、父は私に土下座した。私は「ああ、もう親はあてに出来ないんだ」と悟った。そして自力で金を稼ぐために、風俗業界に飛び込んだ。

私が稼ぐようになると、父は次第に私に金の無心をするようになった。テーブルの上に置いてあった私宛の手紙に、「本当に我が家が苦しい。毎日の稼ぎの中から、2万だけどうか入れてくれないか」と言うお願いの文がつらつらと書かれていた。父のお得意作戦の同情を引く、と言うのはわかり切っていたけど、私には父のところにいる以外行き場所がない。仕方なく私は毎日毎日、2万円を父に渡し続けた。

そんな中、義父が私の養子縁組を解除した。私の戸籍は宙ぶらりんになった。父と母が私の目の前で、どっちの戸籍に入れるか揉めていた。私が入れば税金があがる、だからどっちも入れたくないようだった。まるで押し付け合うみたいに父と母が言い合いをしている。最悪だ、と思った。

結局、祖父から電話がかかってきて「お前はもう両親は頼れない。名字をやるからひとりで戸籍作れ。その名前で絶対ニュースに乗るようなことはするなよ」と言った。私はいろんな役所に行って手続きをして、自分一人の戸籍をとった。父の名前でも母の名前でもない、母方の祖父の名字を名乗ることになった。

18歳になって、私は一人暮らしすることを決めた。私の名義では無理だったので父名義になってもらい、父の紹介してくれた不動産でマンションを見つけ、初期費用を払っておいてね、と手続きをする父に初期費用を渡した。そして1日かけて荷物をまとめ、さあ、あとは引っ越し業者が来るだけ、ってなった時不動産会社から電話がかかって来た。

「契約日にお父様が来られてないんですが、お父様は?」と言った内容だった。私は頭が真っ白になった。

「え?父に初期費用渡したのでそちらにもう伺ってると思っていたんですけど…」

「いえ、来てないです。初期費用も頂いてません」

それを聞いて、やられたな。と思った。父は初期費用60万を持って、トンズラしたのである。急いでかけた電話にも、もちろんでなかった。

警察に相談に行ったが、肉親間でのお金のやり取りは犯罪にならないのだという。捜索願は出せるけどどうする?と聞かれたが断った。私は頭の血管がプッチンと切れた音が聞こえた。家に帰って、暴れに暴れた。テレビをたたき割って、家中ひっくり返して、それでも足りなくて手首を思いっきり切った。まさか実の父に裏切られるとは思ってなかったので、怒りの感情が暴れに暴れた。同僚が心配して迎えに来てくれて、私は同僚の家で子供みたいにワンワン泣いた。

父が帰ってきたのは、それから2週間後。「ふざけんなこのくそじじい!」と怒鳴りつける私を前に、父はただ小さくなって謝るだけだった。「本当にごめんなさい。絶対に返します。」の言葉に「ごめんじゃ済まねえんだよ今すぐ返せこのクズ!娘から金盗んでよくのこのこ帰って来れたな!てめえそれでも男かよ!!!!」と怒鳴った。父は更に小さくなって「ごめんなさい」を繰り返すばかりだった。

それだけじゃない、その数週間後母から電話がかかって来た。

「あんたちゃんと学校行ってるの?純ちゃん(父)が私の実家来て、あんたの学費が足りないって言って300万借りてったけど」

「は?私学費払えないから学校辞めてくれって言われたけど」

「それ本気で言ってんの?ああ、やられたんだわ。純ちゃんはやっぱり詐欺師だ」

「この前私が引っ越すのに純ちゃん名義で借りようとしたら初期費用持って逃げたよ、60万」

「あんたあの男に金なんか渡したら終わりよ。払うわけないじゃない。いい?純ちゃんは金の亡者なの。金にだらしなくてがめついの。もう一刻も早くその家出なさい。またやられるわよ」

電話を切って、私は体中の力が抜けた。ああ、私の父はダメなやつなんだ、ということにこの時ようやく気付いた。金を無心された時点で気づけばよかったのに、私も詰めが甘かったのである。私だけじゃなく、母方の祖父母からも金を巻き上げてたなんて、信じたくない事実だった。

私は働いていた業者の人のつてを頼って、部屋を又貸ししてもらうことになった。もう父のとこもダメだ、一人で生きてかなくては、と思った。

19歳の時、母が義父と離婚することが決まった。私がいるから上手くいかないと義父は言っていたくせに、私が消えても変わらなかったのだ。でも弟の親権で揉めに揉めて、離婚しているのに同居しているという苦痛な環境に母は居た。父は意地でも弟の親権を話そうとしないという。

「じゃあ裁判すればいいじゃない。」と私は言ったが、祖父母がこれ以上一緒にいたら母がおかしくなるからもう諦めて出てけと言うのだという。私は意味が分からなかった。何故弟を置いて出て行けというのだろうか。孫と娘だったら、娘の方が大事だって言うのか。

そんな中だというのに、信じられないことに母は男を作っていた。離婚しているのだから自由だとはいえ、弟のことで揉めている中何故男性と交際出来るというのか、全く母のことが理解できなかった。結局は自分のことしか考えてねえじゃん!と母に怒鳴りつけたが、母は黙ったまんまだった。

結局母は弟を置いて家を出て、交際相手と結婚した。私はそれを電話で聞いた瞬間「もうあなたのことお母さんだと思えないわ。弟置いて結婚なんて頭いかれてんじゃないの?一生私にも関わらないでね。金輪際電話してこないで」と言って切った。

母が許せなかった。自分のこどもより自分の幸せをとるなんて許せなかった。私のことも放棄して、今度は弟も放棄するのかよと思った。置いてかれた弟を思うと、可哀想で可哀想で仕方なかった。いてもたってもいられず、私は弟に会いに弟の通う中学に向かったが、完全に拒絶されてしまった。「もうなんでもいい。関わらなくていい」と完全に心を閉ざした弟を前に、なんも言葉をかけてやれなかった。


もうめちゃくちゃすぎて、理解が出来なかった。父も母も自分勝手すぎて、自分のことしか考えてない。子供のことをなんだと思ってんだよと、心底がっかりした。親は子供が成人するまで、責任をもって育てるのが普通なんじゃないの?違うの?子供を育てるより、自分の方が可愛いの?考えれば考えるほど、親が嫌いになった。


今でこそ母とは仲良くやってるが、未だに恨みの気持ちが沸くこともある。「私のことも、弟のことも捨てたくせに」って思ってしまうことがある。

でも私はこう思うようにしている。親はただ産んでくれた人、親も人間だから完全じゃない。だから期待もしないし、頼りにもしない。親だからって聖人なわけじゃないし、スーパーマンでもない。親もただの人間なのだ。

ずっと拒否し続けていたけど母が心臓発作で死にかけたのをきっかけに、「私は母が死んだら泣く」ということに気づいた私は、母と仲良く過ごすことを選んだ。死んだら泣く、ってことは母のこと嫌いになれていないのだ。きっと母を拒絶し続けて、もし母が死んだら後悔すると思うから私は母と仲良くしている。ただそれだけ。産んでくれたことに感謝の気持ちもなければ、育ててくれたことに感謝の気持ちもないけど、しょうがない、そういう人が母なのだから。半ば諦めの気持ちである。こういう母だから、しょうがないという。

父に対してもそうだ。お金は帰ってきてないし、私が22の時に失踪したけどもう恨んでもいないし、父のことを嫌いになれない私もいる。


好きだけど、嫌い。家族って呪いみたいなの。切りたくても切れないみたいなの。


母も丸くなって、最近は「もっと萬ちゃんを甘やかしてあげて褒めてあげればよかった」と懺悔することが増えた。今更後悔されても困るのだが。

「でもわかって欲しいのは、父がいないからって義父にバカにされたくないから厳しく当たったの。父がダメでもちゃんと立派に育てられるって証明したかったの」と母は言う。

私はそれを聞いてそんなことよりも、私はただ母に優しく抱きしめられたかっただけなのになあと思った。いつも鬼のような顔でいる母より、笑っている母をみたかっただけなのに。我が家の家系が求める「良い子」じゃなくても愛して欲しかっただけなのに。ただそれだけなのに。私の中の小さな子供は、ずっとそれを望んでいた。

でも、きっと母も必死だったんだろう。「実父のようにならないようにこの子を育てなきゃ」と。その気持ちはわかるから、余計な事言わずに口をふさぐ。

家族って難しいな。どうしてこんなにややこしいのかな。たまにめんどくせえな、って思うけどこの家に産まれちゃったからしょうがないんだよな。

クレヨンしんちゃんみたいな家族を作ることが、普通じゃないことに大人になってから気づいた。両親がいて愛情にあふれた家庭を作ることが必ずしも可能ではないのだ。普通って一番難しいものなのだと思う。

死にたくないけど、産まれて来たくなかった。誕生日が来るたびにそう思う。「産まれてきてよかった」って思うことは沢山あるけれど、でもそれをぜんぶまとめても産まれて来たくなかった、は消えてくれない。

いつか母に「産んでくれてありがとう」と言える日が来るだろうか。

わかんないけどとりあえず生きるを選択し続けてみることにする。グッバイ20代!振り返りたくないくらいの20代だったから、40歳を迎えるときにはいい30代だったなあ、って言えるといいなあ。

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