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母と私

母と私は、似ているところがあまりない。顔も似てなければ、体系もまるで違う。身長は母のおかげで163㎝あるが、母方の祖母の頬骨が出た大き目な顔と父に似た短足胴長で「顔でかダックスフンド」というあだなを援デリ時代につけられたほどだ。母は顔も小さく、足も長くていつも細い。弟はそれを引き継いだから遺伝子勝ち組だが、私はもう骨格からブサイクで手の施しようがないのである。

性格もあまり似ていない。母は恋愛至上主義というか男がいないとダメなタイプで、一人が苦手な人間だ。今でこそだいぶ丸くなって穏やかになったけど私が子供の頃は気が荒くてまじでヒステリックだったし、めちゃくちゃツンデレだし、言葉にトゲがあるというか「そこまで言わなくてもいいんじゃ?」ってことを普通に言う。まあ私と一緒で「オブラードに包む」と言うことが出来ないんだけど、母の場合は私よりひどい。たまに旦那さんを不憫に思うくらいだ。あとすぐ否定する。そして愛情表現が下手くそ。そんでメンヘラ。

私と母の似ているところは、ジャニーズが好きなところとメンヘラなところと変なとこ頑固なところ。
本当にパパとおかんの、両親のダメなところばかり引き継いで育ってしまったのが私だ。

街録では、母のひどいところしかフォーカスされなかったので、改めてきちんと母の話をしたいなと思ってこの記事を書いている。

母は、確かに厳しかった。母と二人で暮らしているときは母はいつでも優しくて、怒られたことなどなかったけど、義父が来てから、弟が産まれてから、それは変わった。「お姉ちゃんなんだから!」が母の口癖になり、みながみな弟ばかり可愛がって、私はいつも蚊帳の外にいるような気分だった。私もまだ母に甘えて、母と一緒に眠りたかったのに、幼稚園に入ってから一人で眠るようにいいつけられて、真っ暗な部屋でちょっとだけ暗闇を照らす豆電球を見ながら、寂しくて寂しくて泣いたのをよく覚えている。

母は「あの時は父親がクズだから、萬ちゃんまでクズだと思われたくなくてしっかりした人間に育って欲しくて必死だった」と大人になってから言っていた。確かに私もその立場にいたらそう思うかもしれない。でもそれでもたまにでいいから、褒めて欲しかった。「良い子だね」と頭を撫でて欲しかった。でも母は、出来なかったのだ。何故ならば自分がそうやって育てられたからである。愛情表現が、出来ないのだ。祖母がそうやって育てたように、母はそうやって育てる方法しか知らなかったのだ。

祖母もまた、私が大人になってからこう言った。「あなたのお母さんの育て方を間違ったのかもしれない。もっと褒めてやって、優しくしてやればよかった」
母もきっと、子供のころ相当我慢をしたんだろうと思う。甘えることも出来ず、厳しく育てられて目に見える愛情表現がないまま育ってしまったから、それが愛情だと勘違いしてしまったんだろう。それでも母は祖母のことを尊敬し、恨んでないとツイキャスで言っていたが、私は母に対して正直そうは思えない。

でも、母も厳しかったのは勉強と礼儀ぐらいで、あとは割と放任主義だったように思う。私がアスペルガーだからって「どうしてみんなと同じことが出来ないの!!」と責めたりすることは無かった。人と違う、ということを「それはあなたの個性なの。みんなと一緒なんてつまらないよ」という母だった。ランドセル忘れたり給食袋忘れたり宿題忘れたりしても、「もーまったく」と小言言うことはあっても、怒られはしなかった。母曰く「こういう子だから仕方ない」と諦めていたらしい。協調性がなくても、周りの大人がギョッとすることしても、別に怒らなかった。
でもよく自分が機嫌悪い時とかヒステリックになって八つ当たりしてくるからまじで母の沸点謎だった。まあ私も空気読めないから母がイライラしてるのとかわからずに能天気なこと言ってたりしたからなんだろうけど。
でもなぜか私の子供の頃の母のイメージと言ったら「ヒステリー起こして怒ってる母」の印象しかない。これも後日母に言ったら「あのときは義父とのことでイライラしてること多かったから笑顔で過ごす余裕がなかった」と言っていたけど。


それでも仕事で家に義父がいなきゃ別に母と喧嘩になることは無かったし、私が好きなものを一緒に好きになってくれて、ジャニーズで誰かデビューする度に弟と母と私でテレビにかじりついて応援していたし、よくその地域だけの平日祝日の時は「空いてるからいこっか!」と原宿のジャニショに連れてってくれたし、myojoも毎月定期購読で買ってきてくれたし、ギャルになりたい!となった時は母が109行ったり、ナルミヤブランドの洋服をパート代から買ってくれていた。でも私が欲しいといったものは買ってもらえなくて、完全に母の趣味でコーディネートされるんだけど。

母が本当に厳しかったのは、英語だった。子供の時って普通の英検とは違う児童英検っていうのがあるんだけど、それの一番上の級の時にあんま勉強してなかったら不合格になっちゃって。

「あんたがやりたいっていうから習わせてるのに、落ちるなんてどういうこと!!!!」
と私の右頬にビンタが飛んだ。ビンタされた瞬間「クソ!次は絶対受かってやる!!」と私は心をメラメラさせたんだけど、母はそれをわかっていてビンタをしたという。私は褒めると調子に乗ってやらなくなる、っていうのを十分にわかっててそうしたのだ。私は闘争心を煽られることでケツに火が付くタイプなのである。
それからまた猛勉強して、その級を無事に習得。小学校の高学年になると特進クラスに入れられることになり、通うのが週1だったのが週2になり、授業も21時までになった。それにプラスで膨大な量のホームワークもこなさなきゃいけない。しかも日に日に授業内容は難しくなっていく。日本語一切喋っちゃだめで本当鬼畜でスパルタなスクールだったけど、おかげで中学校の英語を苦労せずに済んだ。だって引っ越してから新しい英語の塾に入った時「使ってた教科書見せて」っていわれたから見せたら「これもう高校レベルだよ」っていわれたもん。まあでもそれで英検も取りやすかったから、まあ厳しくされて良かったのかなとも思うけど、英検取ればとるほど、テストで満点取ればとるほど、それが当たり前でしょみたいになってフェードアウトしちゃったんだけど。ちなみに英語を勉強してるとき、be動詞とか助動詞とかで覚えさせられなかったから、中学でbe動詞がーとか名詞が―とか言われてもわけわからんだった。長文とリスニングが好きだったから「めんどくさいやつが好きなの?変わってんね」ってよく言われたな懐かしい。


学校行かな過ぎて内申が悪かったから成績上げないとお前いく高校ないぞ、と担任に言われてから英語塾週4+普通の塾週2で通ってたんだけど、その費用のほとんどがおかんのパート代。私のために一生懸命働いてくれてたのに超絶反抗期の私はそんなことも知らずおかんと毎日バトルしてたから、親の心子知らずって本当だなって今更思うよ。でももう義父の暴力と皆からのプレッシャーでしんどくて当時の私は限界だったのだ。

我が一族は「聞き分けが良くて成績が良い子」しか良い子として認められなくて、少しでも反抗しようもんなら一族総出で「出来損ない!」「何様のつもりだ!」って罵るような一家だったのね。だから思ったことそのまま言ってるだけなのに、総出でみんなわたしのことを責め続けるの。当時味方でいてくれたのは、一番上のいとこだけ。
「うちの家族はおかしい」というのを、唯一話せた相手だった。
だって何かするとすぐ祖母に電話がいって、その日のうちに家族全員から非難受けるんだよ、おかしいでしょ。もうよくある学校にいる女の嫌なグループみたいな感じを、いい大人の親族がやるの。だって一番上のいとこが看護学校行ってて、やっぱり服飾の学校に行きたいって言いだした時も「今までその学校行くまでにいくら金かけたと思ってんだ!!」「安定しない仕事に着くなんてあり得ない!」ってみんなから非難されてて本当見てられなかったもの。

親族皆が認めた職に就くことしか、認めてもらえないのだ。
子供の意見を尊重なんて、我が一族にはなかった。
祖父が公務員だったせいか、とにかく安定している仕事に就くことばかりを子供の頃から言い聞かされて生きていた。祖母は私に「外交官になって欲しい」って言うし、母は母で「青山学院あたり入って留学して海外で活躍して欲しい」と言うし、英語塾の先生は「絶対お前は上智大学。それで留学しろ」って言うし、どうしてみんなが勝手に私の将来を決めようとするんだろう…。と恐怖でしかなかった。

「それほどみんなが萬ちゃんに期待をしていたのよ」と母は言ったが、私からすればただのいい迷惑だ。
英検受かった時だって、誰も褒めてくれなかった。それで心が折れてしまったというのに、母は職場で自慢しまくり、祖母は近所中にうれうれと「孫が英検受かったのよ!」と言いふらしてたという。これでわかるだろうか、我が家の変なところに。普通直接本人褒めるもんでしょ?違う?w


父と暮らすことになったのも、母が嫌いになったわけじゃない。義父に殴られる日々がもう無理だったのだ。そしてそんな義父と離婚しない母も。
父が迎えに来る日、母は私の好物のシチューを用意してくれた。私はそのシチューを食べながら泣いた。母も泣いた。どうしてこうも、上手くいかないんだろう。私はただ母と弟と、笑って過ごせればそれでいいのに、母はどうして義父と離婚してくれないんだろう。パパのところにいくのは、義父と離れられるから即決したけど、これから弟は一人になって、この家で暮らして大丈夫なんだろうか。色んなことが頭の中でぐるぐるして、涙が止まらなかった。迎えに来てくれたパパの車に乗ってからも泣き止まない私に、パパは私の肩を優しくたたいて、ただ黙って運転してくれた。

その後のことは家族戦争と言う記事で書いたのでみんな知ってるだろうけど、母とは色んないざこざがあり、絶縁したときもあれば、仲直りしたこともある。

そしてシャブ中と別れた後、7年ぶりに母と過ごす日々が始まった。最初こそ上手くいっていたものの、段々と喧嘩することが増えた。週に何度かは飲んで帰りが遅い私に対して母の雷が落ちるのだ。もう成人してとっくに大人で、酒くらい飲むであろう時期の私にガチで怒って来るのである。
「いい加減にしてよ!子供じゃないんだから!!」と言うと
「おすずが可哀想でしょ!お留守番させて!」とすぐ猫を引き合いに出す。別にお留守番してても帰ってきたら遊んで一緒にねんねするというのに、なんでそんなにお留守番させることを切れるんだろう。母がいないときは、私は実家の猫の看病をしてるというのに。理不尽すぎて、意味が分からなかった。でも気づいたのだ、多分母の中では私は3歳児と変わらないのだ。母の中で私はまだ子供なのだ。だから怒るのである。

でも母との生活は、長く続かなかった。住んでた家が戦前に建てられた家で、もうぼろが来すぎて住んでられないほどの状態になったのだ。
その前から家を買おうとしていて「一軒家買う頭金にするから」と母は毎月余計に私からお金を持って行ったのに、結局母が決めた家はマンションでしかもペット不可。「安くて固定資産税が低いから決めたの。でもあんたが住む部屋はないから、自分で部屋探してね」とある日いきなり言われたのである。

「は?一軒家買うって言ってたよね?あのお金どうしたの?」と聞くと、「そんなもん生活費で消えたわよ」という母。

本当にクソだ!
パパの事悪く言うけどパパと大差ないじゃねーかよ!!!!
と怒りで一杯になったけど、もう言っても無駄なので諦めた。そう、母は結局自分のことしか考えないのだ。ずっと前からそうだったじゃないか。だから離婚も結婚も子供を巻き込むのだ。

私はその日からがむしゃらに働いて、引っ越し資金を貯めた。丁度弟も7義父の家を出たがっていたので一緒に住むことを決め、大急ぎで部屋を探して契約。
そんな中、不憫に思ったのか、祖母からある日封筒を渡された。中には30万が入っていた。多分私が怒ってるのを、誰かから聞いたんだろう。
「引っ越し資金にしなさいね」と祖母が言った。

ああ、これで母を許せってことね、と思った。
ええい!ままよ!こうなったら全額良い家電に使ってやる!と私はその30万で良い家電を買いあさった。そしたらちょっとすっきりした。


そんなことがあっても、私と母は仲良く過ごしている。
もう母はただの産んでくれた人でしかない。期待もしないし、あれこれ望まない。でもこれが私の母親なのだ。
趣味が同じくジャニーズなので一緒に現場もいくし遠征も行く。一緒にお出かけしたり買い物にだって行くし、休みの日は長電話したりもする。仲は良いけど、親って言うより血がつながった友達みたいな感じである。
残念ながら私は母の子と尊敬できないし、クソだって思うことも沢山あるけどしょうがないのだ。この人が母親だから。
そしてやっぱりどんなにクソな事されても、私はなんだかんだ母が好きなのである。

子供の時に甘えられなかった分、今は存分に母に甘えている。昔は出来なかっただだをこねたりわがまま言ったりも出来るようになった。疲れて精神的に病んでるときは「ハグして」と頼んで思いっきり抱きしめてもらうことも出来るようになった。母に抱きしめられるたび、小さい私の中の子供が成仏する。

大人になってようやく、私と母は親子、らしくなってきたように思う。

母も性格が昔ほどヒステリックにならないし悲劇のヒロインになっちゃうことも減った。子供の時に母にして欲しかったことを、今は母が一生懸命やってくれてるなあと思う。

もしも母が明日急に死んでも、私に後悔はない。多分泣くけど「ああしとけばよかった」「こうしとけばよかった」となることは無いだろう。だってもう色んな所に連れてってるし、色んな時間共有してるし、十分親孝行している。

母の命が尽きるまで、私はこのベストなスタンスを貫いていきたい。

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