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関ジャニ∞サブスク解禁したらあの頃のキラキラピンクに輝いてた青春をどうしても書きなぐりBEATしたくなったから書かせて

多分ほとんどの人が興味ないと思う。でも私が私のために記録したいから勝手に書かせて。これは誰のためでもない、自分のために書く健忘録である。


私に雷が落ちたのは小学校三年生の時、大好きだった昼ドラに出演していた内博貴を見た時だった。小原裕貴くん以来推しのいなかった私は嵐やデビュー組やYah-Yah-Yah見てキャッキャしていたが、内博貴を見たその瞬間雷がドカーンと落ち「この王子様みたいなイケメン誰だ!!」となった。そしてテロップで「内博貴(ジャニーズJr)」と記されていたので、猛暑の中歩いて10分かかる本山でダッシュで急いで書店に行き、MYOJOを開いて内博貴を探した。

いた!関西ジャニーズのメンバーだ!!関西人なのか!!
あ、関西テレビでレギュラー番組ある。ほんじゃに…ふんふん。次はテレビガイドのテレビ表でさがしてみるか…
(うちは神奈川なのに何故か埼玉テレビが映り、そして関西のテレビが良く放映されていた)
そしてテレビガイドのテレビ表を見ると夕方に放映しているのを確認。

そこから私の毎日はキラキラして見えるようになった。
毎週毎週やってるほんじゃにはバラエティメインで、最後に何曲か歌うのがお決まりだった。
渋谷すばると横山裕と村上信五と錦戸亮はJr時代から知っていた。当時から目立っていたし、すばちゃんにいたってはスーパーエースのイケメンだったし一人でMステにも出てたし、亮ちゃんもめちゃくちゃ可愛い顔しててセンター取りまくってたから記憶に残っていた。最近見ないと思ってたらみんな地元の関西を拠点として活動していたのかあ、と思った。マルちゃんとヤスはJrのマラソンで一位二位をとり「だれなんこのよくわからないJrは」とおかんが言ってたから何となく記憶にあった。内博貴はこの関ジャニの属していて、v.WESTという安と丸と水野君と内君がやっているバンドもあった。
テレビに映る、関西弁のイケイケなお兄ちゃんに魅了されていった私は、母におねだりして毎月MYOJOを買ってもらっていた。私が好きになる=おかんと弟も興味持つという良い連鎖になり家族で応援するようになった。弟とおかんは最初からずっと丸ちゃん推しだった。良い人だし面白いけど何でこんなブサイクなのに?と当初は思った。だってこれだよ?



ヤスもなかなかな猿だけどw
一番左がおかんと弟が推しにしたころの丸ちゃん。いやもう売れてない歌舞伎のモブホストみたいですやん。こんなブサイクのどこが良いの?と思いつつ二人は丸ちゃんに夢中。しかもおかんなんてタッキー山ピーのスーパーセンターばっか好きになるから意外でしかなかった。(数年後、丸ちゃんはもともとの顔立ちが良いことと、垢ぬけて爆イケメンになるとは知らない私)

そしていつからか大倉が加入して「関ジャニ∞」となっていった。
コンサートもいつも関西ばっかりで、大阪に行く財力の無い私はもどかしかった。今でも付き合いのあるジャニオタの小学校のお友達が少クラを見れない私のために関ジャニが出た毎回録画とっておいてくれて、ビデオにしてくれて飽きずに何度も何度も擦り切れるまで家族で見たなあ。
コンサート行ける勢を羨ましく思いながらも茶の間しかできない私は
「大人になったら絶対全財産つぎ込んでいきまくってやる!」と心に誓っていた。

そのうち内君と亮ちゃんがNEWSでデビューしたけど、関ジャニの二人が好きな私はそこまでのめりこむことなく、CDやテレビを見る程度だった。
だって、関ジャニでいる方が二人とも楽しそうだったから。

クールに見えるけど急にたかが外れるカリスマ性の塊のすばちゃん
話を回すのが上手でメンバー思いのひなちゃん
ダンス下手、歌下手でぽんこつだけど憎めないヨコ
一生懸命でジャニーさんに器用貧乏と言われたのも納得のヤス
とにかくお調子者で面白い丸ちゃん
イケメンなのにヘタレでシャイな亮ちゃん
なんだこのでくの棒は、とおもってた大倉。(大倉担にはめちゃくちゃ申し訳ないけどずっと思ってたw売れてから急にイケメン扱いされ始めたのが私にはよくわからなかった。素直すぎる性格は好きだけどもw)

その中で、末っ子の様に可愛がられてる内。キャッキャしている8人を見るのが大好きだった。

そして私が小学校6年生の夏にデビューしたんだけどCD販売がまさかのまた関西限定。

「なんで関西ばっかり!!!ずるい!!」と転げまわって駄々をこねた1か月後、全国デビューが決まり、おかんがCDショップに連れて行ってくれて、予約をしたのをよく覚えている。
「やっとCDが聞ける!!」と感動したから。
今じゃ予約したCDが届いても「ハイハイ、新譜ね。Ituneに暇な時入れとこ」とアサヒもびっくりスーパードライだが、この時期はCDが聞けるだけでうれしいと思える可愛いオタだったのだ。

でもなぜかデビュー曲が、演歌w
わくわくしながら聞いた曲だったけど「えんやこらせのどっこいせ」ってなんやねん。ってなった私。でもMステにデビュー時で3回くらい出てくれたのかな?どれも録画して何回も見てるうちに演歌だってことはどうでも良くなった。しかしぺらっぺらの衣装でmvもグリーンバックで撮った低予算なデビュー。嵐なんかハワイでクルージングしながらデビュー発表だったのに、関ジャニはCDの会社のテイチクの屋上という格差。本人たちもネタにしてたけど、本当に可哀想だったwでもそこをネタにして、売れてやる!!とメラメラしている関西のお兄ちゃんたちが、私の目にはキラキラ映ったのである。今は無きHEY!HEY!HEY!に出た時なんか爪痕残すのに必死で面白くて、家族で何回見たことか。

そして小6の時に東京国際フォーラムでのコンサートが決まったんだけど、修学旅行と被っていけず、「修学旅行行かない!!」と駄々こねた私。
「しょうがないでしょう、またそのうちやるわよ」というおかんに
「初めての東京公演だから行きたいの!!初めてだから意味があるの!!うわーん!!」と大泣きして母を困らせた修学旅行前夜。おかげで修学旅行はちっとも楽しくなく、ふてくされた顔の写真ばかり並んでいた。

そして小6の時のクリスマスプレゼントが「感謝=∞」というアルバムの初回盤と通常版だった。
「サンタさん来るかは、おかんはしらないよーん」なんておかんはいってたが、私は知っていたのである。押し入れにアルバムが2つ入ったいつものCD屋さんの袋が堂々と置いてあることをw(少しは隠してよねw)
英語の勉強しながら、一生そのアルバムを聞き続けていた。「英語の勉強するから」を口実に、レコメンという深夜までぶっ続けで喋るひなちゃんとヨコが出てるラジオを最後まで聞いたり、深夜番組としてスタートした関ジャニの関東初レギュラー番組の「ほんじゃに」も、夜中にこっそり起きて見ていた。
そして当時流行っていた「夢小説」というのにもハマりまくった。携帯小説のようなもので、名前の部分に自分の名前を入れると好きなメンバーとのちょっとエッチな恋愛小説から、本気で泣かせにかかる恋愛などをウェブ上で体感できたのである。夜な夜な読み続けたせいで、パケホがまだない時代に私は7万という携帯料金を叩き出し没収。華の中学生だというのに携帯もなしなんて私くらいしかいなかったから、友達と待ち合わせとかしづらくてみんな「萬ちゃん携帯ないからこうしよう」と工夫してくれたりしてたな懐かしい。でも携帯がないおかげで、メールが出来ない代わりに仲良しジャニオタファミリーとの手紙の交換が毎日の楽しみだった。未だにとってある私の宝物である。その手紙の枚数、300枚越えである。

そして小学校を卒業するころに「大阪レイニーブルース」発売。
「卒業祝いだからね?」とおかんが初回盤と通常版を買ってくれていた。
そして祖父からもらった卒業祝いが自分だけのCDプレイヤー。
このカップリング曲が、私の一番の支えになる曲となった。

いつも夢にえらばれないまま
日が昇り沈んでいく日々
そこに僕の姿がなくても世界は簡単に回った
でもこうしてつないだ手ひとりじゃないね

胸にHeavenly Psycho今は未来に向かう道の途中だ
涙にさえも戸惑うことなく願いを歌う

義父に殴られて頬をおさえているときも、母と衝突したときも、英検へのプレッシャーに負けそうな時も、いつもこれを聞いて「私は関ジャニ∞という支えがあるから大丈夫」と思えた。

そして中一の夏、関ジャニ初の大阪城ホールでのコンサート決定。
また大阪かよ!!!ずるいよ!!私だってコンサート行きたいよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!と駄々をこねたのもつかの間、内博貴が肺気胸で入院、城ホ出演は不可能となってまた私に打撃。
そして退院して元気になったと思ったら未成年飲酒で活動休止。
ダブルの打撃に「もうこの世の終わりだ」とまた大号泣する私に「この世の終わりはもっと地獄よ!!それくらいで泣いてたら人生やってけないよ!ファンなんだったら待つしかないでしょう」とおかん。

そんな時に、ジャニオタファミリーの娘であるこのコラムにもよく出て来るベイビーちゃんに「ヨコちゃんにしなよ!私パパはヨコちゃんがいい」と言われ流されるままヨコ担になった私。そうジャニオタファミリーは旦那は担当という設定だったのである(クソ中二病で痛いけど許して♡)そう、別にこのパフォーマンスが良くてとか、ビジュが好きでとかじゃなく、ベイビーちゃんが「ヨコちゃんがいい」というから担当になったというなんとも珍しい担替えであった。

そして中一の冬、私は運命的な出会いをする。
後にジャニオタファミリーの一員となる、私の妹だ。
「大阪から転校生が来た!!」との話を聞きつけ、「もしかしたら関ジャニを知ってるんじゃないか?」と思った私は速攻ナンパしに行った。

「ねえ、大阪から来たんだよね?関ジャニ知ってる?」
「知ってるというか、内博貴坦で…」
「ぎゃー!私も!!!!関ジャニ好きな子いないからめちゃくちゃ嬉しい!!是非うちのファミリーに入って!!」

と声をかけたのがきっかけで我がファミリーに入った妹。
ジャニオタ同士という事で仲良くなるのに時間はかからず、妹だけクラスが違ったんだけど休み時間はみんなで集まって、何通も手紙のやり取りをして、休みの日はみんなでプリクラとりに行ったり、朝から晩まで一生フリータイムのカラオケしたりいつもいつも一緒にいたように思う。

そして中2の初めに関ジャニの全国ツアーが発表され、妹が無事にチケットを当ててくれてわたしは初めてのコンサートに行けることになった。

「何着ていこう?グッツ何買おう?生で見れるなんて夢みたい♡」
なんてことを毎日考え、コンサートの日まで指折り数えて楽しみにしていた。

そしてコンサート当日。
おかんがどっかから見つけて来たのか、「これ食べて気合入れて行ってらっしゃい!」と∞の形をしたドーナツを朝食に出してくれた。自分も行きたいだろうに、私の学費のために我慢して毎回コンサートの時はそのドーナツを出して見送り続けてくれた母を今考えると本当に有難いなと思う。

がたがたなアイラインとひじきみたいなまつ毛の芋ブスな中学生だったけど、自分なりに精一杯おしゃれして向かった代々木体育館。

チケットの安っぽさが平成って感じだし、チケ代見てびっくりしたよ5500円だったよ。今普通に8000円とかするけど学生のオタどうしてんの?!と今更思った三十路ジャニオタ。一度オタ卒してグッツ処分したんだけど、どうしても捨てられなかったのがチケットとうちわ。今思えばその時の私グッジョブ。

そして初めてのコンサート。グッツ代で散財したせいでお金なくて、妹とマックポークを半分こして食べたけど、お腹空いたなんて感情消えるほど胸がいっぱいだった。だって大好きな関ジャニを、初めて見れるんだよ?それだけどもう十分だった。十分過ぎた。小3から願った夢が叶うのだから。
開演前の「エイト!エイト!」コールも誰よりも負けないくらい必死に声を出した。ライトが消え、カウントダウンと共に「あと何秒で出て来る!!どうしよう!」冷静さを無くす私たち姉妹。登場したときの感動は、今でもよく覚えている。

「関ジャニ∞は、本当にいる!!!!」
テレビとラジオと雑誌でしか見れなかった人たちが、いる!!
席はスタンドの一番後ろの方だったけど、そんなことどうでもよかった。エイトの煽りに全力で応え、今じゃあまりやらないコール&レスポンスの「イエーイ!」「フゥー!!」も全力だった。
初めての全国ツアーだったのもあり、お客さんの熱量も凄かった。みんな必死に声をだし、全力で盛り上がっている。コンサートが終わってから退場のアナウンスが流れても、「エイト!エイト!」コールが止まらず、結局3回くらい出てきてくれて「これ以上は怒られるからな!」と誰かが言ってたのをよく覚えている。

帰り道の私と妹は興奮が冷めず、帰りの電車でずっと喋りっぱなし。本当に夢のような時間で、人生で味わったことのないような幸福感だった。


そしてその公演から4カ月もしないうちに第2弾の全国ツアー発表。しかも都市部じゃなく全部田舎。日帰り出来て、金銭的に交通費込みで自力で行けそうなのは長野くらいだろう、と私たちは話し合って決めた。電車も調べて、安く済ませるために時間かかる乗り方をするので始発で駅に集合。そしてこのコンサートは弟も同行した。弟、小3にして初コンサートである。ちなみに長野に行くなんて言ったら「ダメに決まってるでしょ!」と言われる気がしたので、おかんには「さいたまスーパーアリーナに行く」と嘘をついていた。弟とばれないようにお風呂で会議して、お互いのお年玉と現金を合わせてなんとか往復の子供料金の電車賃とうちわ代と親からもらった5000円で長野へと向かった。(中学生なのにあの時は本当に申し訳ありませんJRさん)

凄く長い道中だったけど、弟も私も妹もワクワクでお喋りが止まらなかった。会場に着いたらやっぱりグッズにお金を使ってしまい、またも貧乏人の味方であるマックポークを単品でひとつづつだけ食べた。(当時100円だったハンバーガー。今じゃ考えられないね)


スタンド7列でまあまあ近くて私たち大興奮。弟は背伸びして必死に丸ちゃんに手を振っていた。凄い盛り上がりようで、当時のジャニウェブにすばちゃんが「長野熱かった、ありがとう」と書いていたくらいの歓声だった。

当時のファンは本当に熱量が違ったように思う。私もそうだったし、会場にいる全員がそうだった。ロリータに姫ギャル、キャバ嬢みたいなお姉さん、強めギャル、原宿系といろんなジャンルのお姉さんたちがいたけど、私たちが憧れたのはやっぱり「原宿寄りの姫」だった。高校生になったらもっとメイク上手になって、お姉さんたちみたいに可愛くなりたいと夢見ていた。

そしてコンサートが終わり、途中の駅で公衆電話で家に電話をすると、義父が出た。「お前嘘ついたな、今日さいたまスーパーアリーナでコンサートなんかないじゃねえか。長野にいってるんだろ?!」と怒鳴られたので黙ると「ちょっと代わって!あんたたち!!!長野にいるの?!」とおかんが出た。
「ごめんなさい、本当は長野に行ってました。多分最寄りつくの、22時くらいになる」
「駅まで迎えに行くからコンビニの中で待ってなさい!!」
ガチャリ、と電話が切れた後「やばいなあどうしようかなあ」となった。弟と必死に怒られない方法を考えたけど、正直にごめんなさいするしかないなと思った。親に嘘ついて子供だけで長野まで行ったなんて事実を知ったおかんはこの時「子供なのによく考えたな、よく辿り着いたな。」と感心したと言っていた。義父はカンカンに怒っていたらしいけど「怒ったら私が許さない。二人で協力して長野まで行ったんだから私は褒めてやりたい」と言って黙らせたという。
だから最寄り駅に着いて母の顔を見た時、ビンタされるか怒られるかちょっと構えていたが、母は涙ぐんでいた。そして私たちを抱きしめて「よく無事に帰って来たね、長野まで行けたなんてすごいね」と褒めてくれたので拍子抜けしてしまった。

「あんたたちご飯は食べれたの?」
「グッズ代と交通費で消えて、マックポークしか食べてない」
「お腹空いた」と弟
「もう、ちゃんと長野に行くっていえば余分にお金渡したのに!コンビニで好きなおにぎりでも選びなさい」と言っておにぎりを買ってれて、歩いて食べながら帰った。よっぽど楽しかったんだろう、嬉しそうにコンサートの感想を母に話す弟を見ながら母も私もニコニコ。弟の机には大事そうに、丸ちゃんのうちわが飾られ、写真を撮る時はいつも丸ちゃんと一緒だった。


そしてその2か月後に再びツアー。全国ツアー第2弾である。
この時本当にエイトコンサート連発で私もお年玉が尽き、このツアーは母に「お年玉で返すから!!」と泣き落としと、妹とおかんがメル友だったので妹もおかんに懇願してくれてお金を援助してもらった。
今回はジャニオタファミリーで行こう!となり、ベイビーちゃんと妹と孫の4連で申し込み。そんで当選。
思えば私が17歳くらいまでは、申し込んで外れることは無かったように思う。(関ジャニって誰?っていわれるレベルだったからな…)昔は電話で当落聞く手法だったので、繋がるまで何回もリダイアル。そしてコンサートの申し込みする時は郵便局で希望のチケット枚数分のお金を先に振り込み、という謎の制度であった。

そしてこのコンサートで私は史上最強の幸せをもらうなんてこと思いもせず、従妹が作ってくれた水玉のスカートにパニエを履いて、自作プリントしたエイトのキャラのTシャツで気合入れて参戦。



朝10時からの公演というなんとも珍しい時間帯のせいで田舎住まいの私たちファミリーは始発で新横浜に向かい、グッツを買って、お金がないから横アリの階段に座り込み、クッソ寒いのに、若さだろうね、元気にキャッキャ騒ぎながら会場を待った。

そしてスタンド9列目、って書いてあったのにいざ行ったら前の席が潰れていて実質前から2列目という神席に着席時から興奮が止まらないわたしたち。「絶対ファンサ貰うぞ!」「おー!!」と円陣をくんだのもよく覚えている。

メンバーが目の前に来る。届きそうな距離で。
初めての神席に私たちは全力で騒ぎ、踊り、声を出しまくった。
そして終盤、口笛の向こうの時に、ヨコがこっちに向かって歩いてきたのである。

みんなでせーのとタイミングを合わせて「よこちゃーーーーーーーーーーーん!!!!!」と全力で叫んだ。
そしたらなんと、花道を降りてこっちにやってくるではないか。
そしてわたしにむかって笑顔で手を差し出した。私は震える手で握り返した。その時の感触や、手が離れていく感覚まで細胞レベルで覚えている。
その後私は泣きすぎて立てなくなり、妹とべいびーちゃんに支えられながら最後までその公演を見た。

私はこの日より、幸福な日を知らない。世界で一番大好きな人が目の前に来て、手を握ってくれた。これより幸せなことなんて、ある?!
私のところに来てくれた、私を見てくれた、という夢のようなあの瞬間。今思い出せって言われてもすぐに思い出せる。

「プリンセスとプリンスみたいだったよ!!」と興奮気味に公演後妹は言った。そして絶賛中二病な私はこれをきっかけに「絶対横山裕と結婚するんだ!!」と信じてやまなかったwww

ていうかこのツアーセトリ神だったから円盤化しなかったの一生根に持ってるよテイチクさん。というか円盤化してない公演多いんだよね。∞だよ!全員集合ツアーもセトリ神だったのに円盤化してないし…ドーム公演までしたのに…


んでこのコンサートの日は夕方から英語だったのでプリを撮れず、後日その日のチケットをバックに撮ったプリクラにベイビーちゃんが書いた落書きにワロタ。
昔好きな写真読み込んでバックの背景に出来るプリクラ流行ったよね?!
今もあればオタ需要あると思うのにな。当時そのプリばっか使ってたよ。

これもそう!ベイビーちゃん恥ずかしがりでせっかく田中聖バックにしたのに恥ずかしがって顔隠してるのに横山裕の写真はノリノリで映ってるの可愛い😂

そうして強火本気愛になっていった私はまあまあ痛いオタになっていき横山裕のことしか考えてなかったし、将来も横山裕と結婚すると信じてやまなかった。痛い、めちゃくちゃ痛いけど、そんな現実があるわけないと知っていて本気愛?なにそれ?愛でるものでしょ?となってしまってる30代の私から見れば、この時の私が一番純粋で可愛らしかったんだなとすら思える。

そして中3の春、47都道府県ツアー発表。初ドームも含まれてたけど広い会場よりどうせなら狭い会場行きたいねなんて話してたけど受験生だし親もうるさい時期だったので無難に横アリに。
この時もお金なくておかんに土下座かまして無事に行けることに。本当にバイトできない学生のオタって親に土下座するしかないよね?!うちは親戚多くないからお年玉少ないし、お小遣いもなかったから本当に必死だった。パンツ売ったり手コキで抜いたお金は化粧品とか服に消えてくしいつも金欠だったように思う。この頃から宵越しの金は持たねえの才能があったんだね☆


このツアー特攻服でバイクで出て来る演出だったんだけど本当にエイトにしかできない演出だなと思うしいまDVD見ても名作だと思う。でも円盤化したのとセトリが若干違ったような違わないような。特攻服がかっこよすぎてあんまり記憶にないんだよねてへ。

そしてパパと住むようになり、バイトもしまくるようになった私は夢だったことを叶えることが出来たのである。

それは1日2公演入ること。
いつもお姉さんオタが昼見て、夜の席はどうたら~って話してるのが羨ましかったんだよね。
昼も見たけど夜も入りますよ~♪という余裕ぶっこきたかった。


そして高1の春それを達成☆
昼公演だけで変える人を横目に「夜も入るもーん♪」と余裕ぶっかませてちょっと大人になった気分に。
昼公演の時アリーナの花道で、∞レンジャーの時亮ちゃんが真ん前で横になってて、なぜか股間がもっこりしてるから「亮ちゃん~!!もっこりしてるよ~!」っていったら亮ちゃん笑って私達姉妹大歓喜w

そんでまた夏にドーム。

七夕だったから願い事チケに書いてるww痛いww
ドームの円錐のキラキラしたとこで、妹とともにお願い事書こう!ってなって公演後に書いたんだよね。
この公演の後レコメンのK太郎さんに会って
「いつも見てます!!」って声かけたら
「ラジオなんやから聞いてるでしょ!!」と妹に突っ込まれた思い出。

この時期マジでヤス担多かったんだけど、マジで初全国ツアーくらいからビジュ爆で私も妹も何回かヤス担になりかけたくらいだもん。

本当に天使👼だった
チンパンジーって弄られてたとは思えないくらいのイケメン化。1番垢抜けたのはヤスなんじゃないかなと思ってる。

ああでも47の時の丸ちゃんも捨て難い。

ベイビーちゃんと久しぶりに見た時丸ちゃんイケメンすぎない?!ってなった。
丸ちゃん今でもイケメンだしファンサマシーンだしスキャンダル一切なくて本当にスーパーアイドルだよなあ。プロだよプロ。当時は気づかなかったけど、丸山隆平をちゃんと演じ切るところ本当に尊敬する。




で、このドームくらいから金銭的に余裕出来て全身ピンク♡わたくしがプリンセスです♡みたいな顔して歩いてた。ちなみに着てるの6%DOKIDOKIで買ったバスローブ。バスローブでコンサート行ったの私たちくらいだと思う。外人に写真撮られるくらいドドドドドドドドドピンクで林家パー子にも負けないくらいピンク。自担のカラーなんて無視!私はピンクのプリンセス♡期である。リボンも勿論6%。私は中三でAMO見てから6%信者であった。16くらいまでは今でいう夢可愛いみたいなかっこをしいていたのである。よく父ちゃんに「サーカスにでも出るのか?」って言われてたw
無事、中学の時夢見たピンク♡リボン♡みたいなカッコが出来るようになって楽しかったな。

そして関ジャニと共に、一緒に階段を上って歩いてる感覚が楽しかった。人気のないあの頃から、衣装がペラペラとぼやいてたあの頃からしっかりとした衣装が用意されるようになり、「コンビニ感覚で遊びに来て」とファンとの距離も近かったように思う。ずっとずっとこうやって、一緒に階段を駆け上がっていくと信じてやまなかった、高校一年生の夏。
バイトがほとんどグッズやチケ代に消えても貧乏で親にせがんでいってたコンサートより、自力で行けるコンサートはその数百倍の達成感があった。ツアー前でお金ない時は千切りキャベツにゆで卵しか食べれなくても、私は幸せだった。
発売されるアルバムやCDやDVDに背中を押されて生きていた。
関ジャニは私にとって生きるすべてで、光だった。

そしてこの年の冬、内博貴の復帰が決まりソロでツアーが決まった。バックはキスマイとスノープリンス合唱団(今やストンズの慎ちゃん率いるjr集団だったけど私たちは興味なかった気付けバカタレ)とクエスチョンだったかな(クエスチョンがクソ懐かしくて泣きそうw)

私と妹は全力で準備をし、横浜アリーナと大阪城ホール全7公演参戦した。
夜公演入って寝ないでカラオケオールして、新横浜の富士山が書いてあるような銭湯でシャワーを浴び、また髪の毛をくるくるに巻いてピンクの戦闘服を身にまとい出陣。どっか泊ればいいのにと大人は思うかもしれないが、そんな余裕学生にはない。そして寝なくても2公演見る体力があったw
大阪は初めての大阪だったので私は念願の大阪の地に足を踏み入れれることに大歓喜。安く済ませるように今よりだいぶ劣悪な環境の夜行バスだったけど、若い私は良い環境を知らないのでお構いなしに爆睡。泊まったホテル揉まうらがホテルの激安おんぼろホテルで金縛りにあったけど、コンサートのためだと思ったら我慢できた。大阪に住んでたことある妹が大阪案内してくれて、美味しいたこ焼き屋や言ってみたかったアメ村に行って安とお揃いのパーカー買ったなー懐かしい♡
寝不足だったり多ステによる疲れでちょっと喧嘩になったりもしたけど、仲が深まったしなにより内博貴と錦戸亮が二人でステージに立ってるのを見れたこと、エイトのメンバーが見に来てくれてたこと、ずっとずっと復帰を待ってた内博貴の活動を満足するまでの数の公演数は入れたことは私たちにとって忘れられない大事な思い出になった。
特に初日all of me for youのイントロが流れた瞬間、私は泣き崩れて立てなくなってしまった。8人時代の大事な歌、歌ってくれるんだ。と思いながら8人だったあの頃を思い出して涙が止まらなかった。






大阪行くのが嬉しすぎて夜行バス乗る前にプリクラまで撮ってる元気さ。
メイクが平成って感じの囲み目で時代感じるね☆
前髪重めぱっつんが命だった☆
今やったら確実に事故るw


プリクラ越しでもわかるピンクの戦闘服ww
そしてうちわも平成満載wこの頃はホログラムとか書体とかバリエーションなくて、自分で東急ハンズで発泡スチロールと蛍光のシート買ってきて、うちわにしたい文字をうちわの大きさに合わせてコンビニでプリントして、それを発泡スチロールと蛍光ボードにあてて縁取ってカッターで切って作ってたのだ。今?もちろんめんどくさいから全部メルカリでオーダーして使ってるよ☆


そしてそれから2ヵ月もしないうちにまた内博貴のソロコン

もう第1弾で死ぬほど行ったから2公演だけ。

それでもやっぱりピンクは譲らない私たち。
ハイハイヒロッキーって公演名だったんだけどハイハイヒロッキーってなんやねんってずっと突っ込んでた私たち姉妹。


これが最後の妹とのコンサートになるなんて、1ミリも思ってなかった。ずっとずっと一緒だと思ってた。でもきっと内博貴が復活してコンサートもやり切って、高校生活が始まって別の世界にいた妹には、ジャニーズ以外の世界に生きたかったのかもしれない。

次のアルバム「puzzle」が発売され、ツアーが決まり「思い出の長野申し込みしよう」となって申し込んだ長野公演。私の名義だけ当たって、しかも席もめちゃくちゃ良い席なのに、コンサートの1週間前、妹と電話しているときにこう言われたのである。

「最近KPOPの方にハマっちゃってるから、もうエイトはいいかも…。」

絵にかいたような「ガーン!!」という絶望だった。
だってずっと一緒にコンサート行くのが当たり前だったから。
同じ本気愛で、絶対自担と結婚しようと言い合ってた相方がジャニオタを降りるなんて考えてもいなかったから。

「そっか、わかった。」と言って電話を切った後、わたしもやけくそになってしまってジャニオタを辞めることにした。相方がいないなら、ひとりでやってもしょうがない。私もオタ卒してお金を全部遊びに使って遊びに遊びまくってやるーーーーーー!!!!となった17歳の私は15歳からしてたクラブ通いの回数を増やし、とにかくクラブで遊んで遊んで遊んだ。当選チケットは原宿のダフ屋で1枚7万で売れたので、その万札握りしめて渋谷の109に行き、好きなだけ化粧品と服を買って散財したのを覚えている。


もうジャニーズは興味ない。と現実の男と遊ぶようになり沢山知り合いも増えた。未成年なのに顔パスでクラブに入れるくらい人脈を作れたのも、オタ時代の行動力が生きたんだと思う。本来は入れないイベントに入って、VIPで寝っ転がったりテキーラパーティーしたりもうやりたい放題だった。
そしてそれから半年もしないうちに私は風俗業界に足を踏み入れ欲しいものはすべて手に入れ、好き放題生きて、シャブ中に出会いスルスルと地獄の果てまで堕ちて行った。

シャブは私にとって欠かせない薬になっていった。何もかも忘れられて、どんどん自分の身体を蝕んでいくのが嬉しくて、落ちれば落ちるほど嬉しかった。このまま早く死ねたら良いのにとばかり考えて私の頭には「死」という願望しかなくなってしまったのである。

そんな19歳の夏、24時間テレビのパーソナリティーが関ジャニだった。待機中にテレビで見てたらなんとなく無性にコンサートに行きたくなった。多分あのキラキラした青春が恋しかったのかもしれない。
そしてヨコが画面に映るたびに「やっぱり好きだ。」となってしまった私は勢いでダフ屋に行き、チケットを購入。東京ドームのスタンド23列で1枚7万円だった。「エイトも人気になったんだな。昔なら定価で売買もあったしこんなクソ席で7万の値がつくんだから」と思った。
そしておかんを誘い、久しぶりに行ったのがこのコンサート。



2年ぶりの関ジャニのコンサート。7人が登場した瞬間、私は涙が止まらなくなり母は「本物だ!すごいすごい!」と隣ではしゃいでいた。
ここまで落ちた私から見るエイトは、あの頃よりもっと遠いとこにいてもう大人気のスーパーアイドルだった。ドーム規模のツアーを、平気で余裕綽々で埋めれるようになっている。
昔は最後にちょっとだけだったバンドもメインになっていて、ダンスナンバーが減ってるけどやっぱりエイトはエイトで、二年離れていても一瞬にして「やっぱりこの人たちだ」と再びジャニオタに速攻出戻ることとなった。

クソシャブ中だった私が、人間らしさを取り戻せるのがオタ活しているときだけだったのである。
あの頃と変わらず、エイトは私の生きる意味で、光になった。
コンサートを見ている間だけは、自分に戻れるような気がした。
しんどい毎日でも、録画でエイトを見れば元気になれた。

もうこの頃のエイトはコンビニ感覚じゃいけないほどの人気で、チケも爆上がりしていたのでいい席で見たい私は毎回2公演入るのに30万ほど使っていた。
ていうか、それが限界なくらいのチケ代だった。
シャブ中で切れ目で休んだり出勤も不安定でシャブ中が金をふんだくってく環境の中、私はシャブ中にバレないように別口座に少しづつお金を貯めて毎回ツアーのために貯金をし続けた。
おかんと大阪にもたくさん行って、仙台や長野などにも行ってツアーの度に遠征してそれを生きる糧にしていた。

多分エイトがいなかったら、私はもうとっくに終末を迎えていただろう。

10周年の時、ファン投票1位だった私の大好きな歌「heavenli psycho」を聞きながら、シャブの切れ目でこの歌を聞いてる自分が情けなくて情けなくて、次この曲を聞く時はシャブと決別したいと心に誓った。

でも売れてくうちにだんだんとコンサートの方向性が変わっていき、「関ジャム」という番組が始まってからは特に、バンドばかりのセトリで構成されるようになり、私はそれが不満で「ばらばらで揃ってないけど一生懸命踊ってる姿が好きなのに」と思うようになった。一番ひどかったのは、「ジャム」コンだった。最初はバンド曲のみで客はうちわ振るのも禁止され、拳を上げるのだけが許された。「何で?好きなようにライブも見せてくれないのかよ」とがっかりした。
ファンも昔は強火みたいな子しかいなかったのに、普通っぽい子が増え開演前の「エイト」コールも少数しかやっていなかった。あの頃の熱量はどこへ?ってくらいライトなオタばかり。(きっと昔のエイトが好きだった人はとっくに担おりしてたのかもだけど)
そして初期はトロッコにふんぞり返って不機嫌そうにしていた亮ちゃんとすばちゃんが客席に笑顔で手を振るようになってたのにも驚いた。前は「オタうぜえな」みたいな顔してたから。(そういうとこ素直で好きだったww)


私が好きだったエイトは死んだんだ、と思うようにした。もう人気が出たから自分たちのやりたいことしかやらないんだと思うこともあった。
それでも周年の時にはファンの意見も取り入れてくれるから、なかなか離れられずに毎回ファンクラブを更新し、お金を積むときは積んだ。
きっとこうやって年を取ってくと思った。ずっと一緒に良い時も悪い時も、文句を言いながらも応援していくんだと思ってた。


そんな矢先、最悪だった「ジャムコン」ツアーが終えてすぐ私にとってショッキングなことがおきることになる。

それは「渋谷すばる」の脱退。

メンバーが泣きながら会見を受けてる姿を見て、嘘だと思いたかった。
ていうか、嘘であってほしかった。
すばちゃんはエイトの不動のセンターで、カリスマの塊みたいな存在で、儚くて、でも強くて、その歌声に何度も救われてきたのに、そのすばちゃんが、エイトの中心がいなくなってしまうなんて。
受け止めたくなかった。
私は仕事を休み、昔のDVDを見ながら忘れたくて死ぬほど酒を飲んだ。泥酔してトイレで吐いてもまた飲んだ。家で飲酒することがない私が唯一したのがこの時だった。メンタルがおかしくなりそうで、誰かに会わないと死んじゃいそうで、夜勤明けのベイビーちゃんが心配してくれて時間作ってくれて渋谷のパセラに行った。でもどの歌を歌ってもすばちゃんのパートがもう聞けなくなってしまうことを実感してしまい、おいおい泣いた。

ずっと着いて来てっていったじゃん。
これからも一緒って言ったじゃん。
最近ライブの終盤になると涙ぐんでたのは、脱退を考えてたからなの?
ねえすばちゃん、エイトを辞めないと出来ないことって何?
辞めてまでしたいことって何?
海外に行って音楽を学ぶって、一時活動休止して休暇じゃダメなの?
ねえやだよ、すばちゃんのいないエイトなんて嫌だよ。

頭がおかしくなりそうだった。
私はこの時気付いたのだ、私はすばちゃん率いるエイトが好きだったんだって。思ってた以上に自分はすばちゃんが好きだったんだって。
だって関風コンの時のビジュが神すぎて本気ですばちゃん担当にしようと思ったくらいだったから。

いつも担当を聞かれる時、横山裕だけど、タイプで言ったら絶対すばちゃん。と答えていた私。
すばちゃんの圧倒的顔面の良さ
カリスマ性
力強い歌声
誤解されやすいけど本当は繊細で優しいとこ

全部全部大好きだった。


だから受け止められなかった。それでも次のツアーは行ったけど、すばちゃんの歌声が聞こえないことが寂しくて寂しくて泣くことしかできず、二回公演に入ったけど「もう降りたほうが良いんじゃないか」とまで考えた。

それでも次に決まった15周年コンサート。
周年だから行くか、と行ったら思いのほか楽しくて、昔の映像も沢山出てきてここまで一緒に歩いてきたんだなと感慨深かった。
シャイで目立ちたがり屋じゃない亮ちゃんが「これからの関ジャニ∞を引っ張ってく」と宣言してくれて、頼もしかった。だからやっぱり応援し続けようと思った。そうやって思えるくらい、最高の15周年だった。


なのに、その二週間後亮ちゃんは脱退した。
もう、何を信じていいのかわからなくなった私は「エイト」を追う力がなくなり担降りした。
もうダメだった。五人になった関ジャニエイトを応援する気なんて到底なかった。

だってさ
8人から7人になった時も、内の帰りを待ったよ?
でも8周年のあと、内は戻らないという選択した。
しょうがないことだと思ったけど、受け止めるのにすごく凄く時間がかかった。やっぱり8人の関ジャニ∞が、私の中で最強だったから。
それでも応援し続けたのに立て続けに脱退されてファンはどういうふうに消化すればいい?

でも田中聖担をして散々自担に裏切られてきたベイビーちゃんに言われた一言ではっとした。

「キラキラして夢を一瞬でも見せてくれたんだよ、その思い出だけ大事に取っておけばいい」


確かにそうだと思った。
思い出は消えない。
キラキラピンクだった青春も、お金積んで追っかけまわした日々も、ちゃんと記憶に残っている。9歳の時からずっとずっと大好きだった。青春のすべてで光だった関ジャニは私の心が、脳が、きちんと細胞レベルで覚えている。

18年間、沢山の思い出と夢をありがとう。
そう思えるまでにすごく時間がかかったけど、それだけの年月いつも私の人生にエイトがいた証拠。

横山裕に、人生史上最高のファンサをもらったことも(それ以来一度もファンサくれなくてお尻ばっかり向けられたけどな💢)
人生をかけて応援し続けた日々も
役で坊主にしたヨコを本屋で見て泣いた初心な頃の私も
コンサートでメンバーと一緒に泣いたことも
関風ファイティングの時にがちですばちゃん坦になろうとしてベイビーちゃんに泣かれたことも
横山裕と結婚すると信じてやまなかった可愛い私も
ジャニーズがきっかけで出来たファミリーがいることも
全部全部エイトがいたから、私の中の沢山の宝物として心の中にしまっている。

まあ、結婚できるなら今でも結婚したいけど!w

9歳から始まったエイト人生は幕を閉じた。
沢山のキラキラとともに。

いつかは書こう書こう、と思ってたこの記事。サブスク解禁で昔の曲を聞いてあふれ出てくる感情が止めれなくて文章にすることにしたけど、ここまで書いて、若干後悔するほどの長文になってしまったし痛いし黒歴史もある。でも今の私から見ると全てが愛おしい。

そして私位の人生の応援ソングであるエイトのdo you agree?の歌詞は、今も私の原動力になっている。

「do you agree?今を飛び越えてそれぞれの天国を目指せ
地図にはない場所にいつしか綺麗な花が咲き誇るよ
we are searching for the truth」

綺麗な花が咲き誇るように、私も私の人生をを生きなければ。


そして最後に蔵出し過去写真を投下しておくw




パンパンダという曲で横山さんがパンダになったので真冬の大阪にこれで行った若さw


ベイビーちゃんと行ったアリーナ。近すぎてお互いの二の腕握り合うくらい感動した公演。
参戦服テーマはチアガール!


これもベイビーちゃんと行ったドーム。昔ほんじゃにでみんながスタジャン着てたからいつかはスタジャン参戦したくて念願叶った日♡


母とおそろいのスタジャン参戦✌️


8周年、20歳の私クソケバいww
2日間行ったんだけど昔の衣装とか展示されてて過去一楽しかった公演♡



切れ目で行った10周年。味スタ遠すぎて駅小さくて電車乗れず仕方なしにタクシーで新宿まで出て大変だった公演。このコンサートで純情恋花火が大好きに♡


念願の家族総出でエイトコン♡
普段セクゾばかり見てる弟が「やっぱりおっさんなった。昔よりダンスのキレがない」って言って爆笑😂


こうやって見るとコンサートの度に色んな洋服着ててそれも楽しかったなとしみじみ。


ちなみにコンサートで感動したランキングは
1位47のエクスプロ―ション
2位FTONのDIVE
3位蜂コンのケムリ
4位FTONのeden
5位10祭の純情恋花火

好きな曲は
heavenly psycho
eden
未来の向こう
クルマジ
愛に向かって
エネルギー
ミセテクレ
10年後の今日の日も
アイライロ
のっきんとらっきん
STANCE
SLAVE
口笛の向こう

で御座います。

長らく読んでくれてありがとう!!
もうジャニーズネタは書きたくねえ(長くなるからww)

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役満ろ萬
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