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PLAYERS' INTERVIEW vol.3 沢村 舜

ヤクルトレビンズの等身大を皆さまに知っていただく「選手が語る」コーナー。前回は2024-25シーズンの共同キャプテンの一人、多田潤平選手をインタビューしました。今回は入社4年目でバックスリーダーの沢村舜選手です。人生の分岐点や判断を迫られているときに必ずラグビーが寄り添っていました。とにかく運動神経が良く、器用な面も持ちつつ、努力することを怠らず真摯に向き合っています。仲間を大切にする心、純粋に楽しんでラグビーに取り組んでいる様子やリーグワンに向けての今の気持ちをインタビューしました。
(取材日:6月29日)


幼馴染と目指した花園


――ご出身はどこですか?

石川県の鶴来町です。

――いつ頃からラグビーを始めましたか?

ラグビースクールに入った小学1年生の頃だったと思います。

――どこのラグビースクールですか?始めた経緯と合わせて教えてください

鶴来ジュニアラグビースクール(以下、鶴来JRS)で、兄と一緒に練習見学をしたときに、このスクールを立ち上げた方に勧められて始めました。

――ほかにスポーツはされていましたか?

最初は水泳を習っていました。その後にラグビーを始め並行して続けていましたが、小学4年生のときに水泳を辞めて野球を始めました。
 
――鶴来JRSは中学校卒業まで続けられていたのですか?

はい、中学校にラグビー部がなかったので、スクールでラグビーは続けていました。中学校では、あまりラグビーに支障がなく融通が利く陸上部に入部しました。

――陸上部でも大会に出場されていたそうですね

はい、走り幅跳びで出場して、確か5m40cmくらい跳んでいたと思います。


鶴来高校時代の沢村選手 ※写真中央(写真:本人提供)

――鶴来高校に進学した経緯を教えてください

私らの時代、鶴来JRSに入ったら自ずと全員、鶴来高校に進学していました。特に定められたものはなかったのですが、みんなで鶴来高校のラグビーをすることが当たり前のことと思っていました。嬉しいことに他の高校からラグビーで誘いを受けましたが、迷うことなく決めていました。

――小さい頃から気心知れた仲間と花園を目指していたのですね

そうですね、同期もそうですが、先輩も後輩も一緒の進路です。確かに鶴来JRSの活動拠点は鶴来高校だったので、この進学は必然だったかも知れませんね。

――最初からバックスだったのですか?

そうですね、小学校時代からバックスでほとんどスタンドオフをこなしていました。

――鶴来高校は花園に出場しているのですね

はい、はるか昔です(笑)。僕のお父さん世代くらいだったと思います。

――鶴来高校はどんなチームでしたか?

部員数は入学当初こそ30人以上いましたが、3年生になることは23人程度まで少なくなりました。あと、顧問が非常に厳しく怖かったことを覚えています(笑)。その厳しい(笑)顧問が指導してくださっていましたので、とにかく練習がきつかったです。

――辛い思い出しかなさそうですね(笑)、良い思い出はありますか?

良い思い出ですか(笑)、高校2年の時の花園予選の決勝です。

――どんな試合だったのですか?

石川県代表の常連校である日本航空高等学校石川との一戦で、現在日本代表で活躍している藤原忍選手(現クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)や、シオサイア・フィフィタ選手(現トヨタヴェルブリッツ)がメンバーに名を連ねていました。12−0から1トライ1ゴールを返し12−7と1トライ差まで詰め寄りましたが、シオサイア・フィフィタ選手にトライを奪われ、7−19と敗戦はしたものの例年にはない接戦を繰り広げられました。

――常に力の差を感じていた相手の背中が近づいた瞬間だったですね

はい、本当に点差以上に接戦でした。でもこれで負けたら仕方ないよねって思ってはいましたが、勝機もありました。悔しく感じられましたので、本気で勝ちたかったのだと思います。


第71回国民体育大会「希望郷いわて国体」の石川県代表に選出されました。


大学3年まで体育の先生になることだけ考えていた


――日本体育大学(以下、日体大)に進学を決めた理由を教えてください

体育の先生になりたかったからです。あとはラグビーを続けるにあたり、関東の上位リーグで戦えている大学でもありましたし、先生になる夢とラグビーを続けることの2つが叶うところだと。

――日体大のラグビー部員、相当多そうですね

常に100人以上いた大所帯でした。高校時代はその1/3弱くらいしかいませんでしたので、正直圧倒されました。

――大学時代で苦労したことはどんなところでしたか?

寮生活ですね。

――大学時代の思い出を教えてください

夏の菅平(長野県)合宿ですね。毎年、馬刺しを購入して部屋で仲間と食べていました。菅平って馬刺しが有名らしくて、苦しい合宿の中でも楽しみでした。試合では大学3年のときに出場した対抗戦の慶應(義塾大学)との一戦が一番記憶に残っていますね。30−27と僅差で勝利した試合で、チームの最初のトライと逆転トライを決め勝利に大きく貢献したので特に記憶に残っています。

――大学生活を終えたら先生になる予定でしたか?

はい、大学3年生までは先生になることだけ、その選択肢しか考えていませんでした。しかし、1つ学年の上の先輩にラグビー選手を辞めるのは勿体無いって言ってくださいました。

――迷いましたか?

迷いました。その声をかけてくださったのが、パリ五輪7人制ラグビー日本代表に選出された石田(大河、現浦安D-rocks)さんに声をかけていただけたので。でも正直半信半疑でした、ラグビー選手として活動できるのかなって。

――続けられるチームはすぐ見つかりましたか?

ラグビー選手として続けていこうと思った時期は、既にどのチームもスカウトを終えているタイミングだったんです。そこで、大学の先輩で仲良くさせていただいている拓行(高橋)さんに連絡をとって相談をしました。


大学3年時、慶應義塾大学に見事勝利を飾る


拓行さんがいてくれたからレビンズの一員になれた


――高橋選手の存在の大きさを感じましたね

本当にそうですね、今もそうですが、仲良くさせていただけていますし、その当時まったく社会人のチームのことも知らなかったですが色々教えてくれました。最終的に高安(勇太朗、現GM兼監督)さんと話をして、私のプレーを見ていただき販売会社の試験をクリアして入社が決まりました。

――沢村選手は常に「一択」で歩んできていますね

確かにそうですね。高校も大学も、レビンズもです。

――教育実習で母校に戻ったときに、心の迷いはありましたか?

そのときはもうなかったです。実習時の教育担当の先生が、私が高校3年時の担任だったんです。当然のように「今年の教採(教員採用試験)受けるんでしょう?」って言われましたが、ラグビーを続けていくことを伝えました。既に入社も決まっていましたし迷うことはなかったです。

――教育担当の先生は残念な思いだったのですね

そうだと思います。ただ、先生になることの夢は先送りにしたのであって、諦めたわけではないです。いずれ先生になりたいって思うときもあるのかなって。

――教育実習は楽しかったですか?

楽しかったです。改めて体育の先生の楽しさを感じました。この実習が全てではないと思っていますし、大変なこともあるんだろうなって思っています。でも、4年前は私も高校生でしたが、立場が違うと「高校生って若い」って思えました(笑)。

――沢村選手の性格を教えてください

あまり引きずらず、気分の波を作らないようにしています。

――それは意識しているのですか?

意識をしているわけではありませんが、極力浮き沈みを無くそうと思っています。ラグビーも仕事も(笑)。だからと言って感情のない人じゃないですよ、嬉しいときは嬉しいですよ(笑)。


イーストリーグ最終節の東京ガス戦は80分フルタイム出場

ここが私の生きる場所


――入社4年目です。仕事とラグビーの両立は大変ですか?

すごく大変です。今こそ慣れましたが、入社当初は毎日が苦労の連続でした。仕事終わってすぐ練習、寝て朝起きて仕事、そして練習という生活。当たり前の生活ですが、息着くタイミングがなかったです。それだけ余裕がなかったんでしょうね。

――大学時代と比べものにならない環境ですか?

大学時代は授業と練習の合間に体を休める時間もありましたし、寝る時間も確保できました。改めて学生は気楽だったと思います。

――慣れ始めたタイミングはいつ頃ですか?

今も慣れていないですよ(笑)、でも去年くらいから自分自身のリズムがわかってきた気がします。今の生活を続ける上で、不満ばかり言ってもしょうがないですし、切り替えなければパフォーマンスだって上がらないと思います。この生活を自ら選んだ訳ですし、ラグビーを続けていく以上、この生活は大切ですし。

――選手として日々成長していますか?

もちろんです。成長していますよね(笑)?

――成長していると思います(笑)が、どんなところで成長を感じていますか?

大学時代と違い、レビンズでは複数のポジションを経験してきています。1つのポジションだけ続けていたら他のポジションの考え方なども理解できなかったと思います。そう考えると、色々な場面で自身のスキルが生かされてくると思います。ラグビーに対する考え方の視野が広がったと思います。

――ラグビー選手に必要なスキルってどこにありますか?

やっぱり、気持ちですね。当然自分自身より体の大きい選手に対してタックルをしなければならないですし、気持ちが強くなければチャレンジもできませんし。あとは自信を持つことだと思います。自信持っている選手って手強いですよね。


日頃の感謝を試合で表現したい


――今年12月に開幕する2024-25シーズンに対する思いを聞かせてください

いよいよリーグワンで戦えるんだなって。でも実感がないですよ。早く試合がしたいです。

――戦っていく自信はありますか?

もちろんあります。セコム(ラガッツ)さんやルリーロ(福岡)さんと同時に参入した訳ですし、他の3チームはもちろん強敵ですが、良い試合ができると思っています。そのためにも今しかできないことを準備していきたいです。

――どのチーム(選手)と戦ってみたいですか?

同じ石川県で、学年は1つ下ですが江本(洗志)選手がいるクリタウォーターガッシュ昭島と戦ってみたいですね。国体では一緒のチームメイトでもありましたし、今までも練習試合で戦っています。ただ、どちらかが怪我をしていて、同じグラウンドにいないんですよね(笑)。大概グラウンドの外で喋っているので(笑)。

――職場の方、ファンの皆様に一言お願いします

まず、職場に対してはラグビー部の活動に理解を示してくれています。その期待に応えられるように活躍しているところを魅せたいですね。ファンの皆様には、「このチームって面白いな」って思っていただけるように白熱した試合をしていきたいです。やっぱり職場の方もファンの皆様にも試合会場に足を運んでほしいですし、試合観戦して良かったと思える戦いを続けていきたいです。

――最後に沢村選手にとって、ラグビーはどんな存在ですか?

何を決めるにも、私の人生の分岐点で常にラグビーが寄り添ってくれている存在です。ラグビーがあったから鶴来高校に進学もしましたし、先生を目指そうと日体大にも入れましたし。ラグビーがあったからレビンズで活動できていますから。

――ありがとうございました


左:堀川太一 中央本人 右:白井吾士矛

取材後記

とにかく器用で、運動神経の良さを感じることができた沢村選手。まっすぐな性格で人懐っこい性格は幼少時代の人間関係にあったのだと感じました。人の恩を大切にする心と優しさ、すべての判断を「一択」で歩んできた背景に両親の存在が欠かせません。すべての選択に干渉せず、遠く離れた試合会場にも足を運んで応援してくれる両親のためにもリーグワン参入元年は、フル回転で活躍をしてほしい選手の一人です。最近のマイブームを聞くと肌のケアで、岡崎拓人選手に勧められたそう。とにかく日焼けは危ないと(笑)。年頃のお肌をきれいに保つことを心がけているそうです。

取材・編集:広報担当
写真:土居政則、ヤクルトレビンズ、本人提供


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