見出し画像

平日と麺と久川凪の日記 - 20210615

ここ数日は正しい時間に寝起きをしているのだが今日は朝四時に目が覚めた。なんか最近眠ってから4~6時間とかそれ以前で起きてしまうことが度々あって不可解というか、短くて8~12時間、長くて16~20時間ほど一切目覚めることなく寝る身体に慣れ親しんで(また苦労させられて)きた自分としては首を傾げるばかりである。

そういえばおとといびっくりしたことがあって、渋谷にライブを観に行って帰ってきた夜、部屋に違和感のある匂いを感じた。少しして気づいたがそれは「汗臭さ」だった。着ている服を引っ張って内側を嗅ぐと明らかにそこが源だった。これが結構衝撃だった。
昔から自分はそもそも汗を全然かかない(代謝が終わってるらしい)(代謝の意味もよくわかってない)上に、汗が完全な無臭だった。不本意に運動部で汗を流し続けた中学時代も今も、自分の匂いだから慣れていて気づかないとかではなくマジで汗が無臭だった。そんな自分の身体がおとといになって突然、中学校の体育館で散々覚えたあの「汗臭さ」を完璧に伴ったので、自分からはするはずがないと思っていたその匂いに結構な衝撃を覚え、めっちゃシャワー浴びて寝た(ちなみにそうなったのは現時点でおととい一日だけ)。

眠りも汗も、年を取って身体が変わってきているということなのかな。自分の精神のことは何でもわかるけど身体のことは全然わからない。

先日漫画をめちゃくちゃ買った(呪術廻戦とドロヘドロとゆるゆりを全巻積んでいるのにもかかわらず)のだけど、こないだ幽遊白書を読み終えたのでここ数日はデスノートを読んでいる。やっぱおもしろい。中学生のとき全部読んでちゃんとLに憧れていたし今も好きだ。ニアも好き。

にせんねんもんだいの「Neji / Tori」を中古で買った。届くのが楽しみ。

にせんねんもんだいは1999年結成のインストバンドで、音楽性はノイズや実験音楽に分類される。バンド名がかっこいい。長尺の初めから終わりまで同じ音がひたすら反復し続けるだけの病的にストイックな楽曲性は、キャッチーさとかフックの豊かさとかそういう世俗性とあまりにも徹底的に隔絶されていて、昔聴いたときはマジで全然ピンとこなかった。

ちゃんと聴き始めたのは二ヶ月ほど前に「ろくおん」を買ってからなのだが、これがすばらしいアルバムだった。何より録音状態が最高であることに尽きる。徹頭徹尾すべての音がバキバキのグシャグシャに割れまくっており、耳が痛いレベルの過剰な歪み、最悪の音質に身を委ねる体験ができる。録音状態の悪いバンドサウンドに覗く特有の体温や気配のようなアトモスフィアを嗜好して暮らしている人間としては嬉しいアルバムだった。もはやフリージャズとも思える、雑音そのものみたいなトラックも少なくなく、自分はそこにノイズミュージックの何たるかを見た。

にせんねんもんだいが一貫して示す、同じ音を機械的に反復し続けるだけの偏執的な楽曲造型に(その音楽的掴みどころのなさのあまり)自分は最初こそ理解が及ばなかったが、今はなんとなくその意義を見出している。数行上で機械的という語を用いたが、よく考えれば音楽制作において「同じ音を繰り返す」という技法は機械こそが最も得意とするところである。プログラムされた音の、精確さという美点をあえて忌避し、人体による荒々しくプリミティヴな「演奏」を選択した結果、何が起きているのか。

演奏されたバンドサウンドが鳴るとき、それは演奏した人間がそこにいることを同時に証明する(証左するって書いたけどやかましいので消した)。楽器が出したひとつの音が聞こえるとき、そこにその音を出した人間の手が、その筋肉の動きがあったことが同時に明かされる。
機械的にデザインされた楽曲を、にせんねんもんだいがあえてプログラムでなくバンドとして手足を用い延々と繰り返す同じ音の、そのバンドサウンドの反復の中でこそ、スピーカーの向こうに存在する人間の息遣いが、存在が相対的に強調され、繰り返し伝達され続ける。同じ音といっても人が演奏する限り厳密には同じ音ではないのだ。機械的な楽曲に、その機械性を起点として新たな肉体性を獲得させることに、にせんねんもんだいは成功したのだ。
コンピュータミュージックが席巻する21世紀に人がわざわざ楽器に触れることの意義がここにはあり、それはバンドサウンド、バンドという演奏形態、ないしは文化の、その本懐にほかならない。これは自分が音楽に最も求めているエッセンスそのものだ。

それはそれとしてこの感じで女性三人組バンドなのもすごい。

眠くなってきたので手早く書きたい。

画像1

寝転がってツイッターを見てたらこんな表示が出た。自分はツイッターの諸々の新機能に対して何も思ってないけど、これは話が別だ。「チップ」という言葉の響きが嫌いすぎるから。

言葉の響きが嫌いといえば一年半くらい前にこういう記事を書いた(一年半経つのか……)んだけど、なんかずっと一定の温度でウケているようで、いまだコンスタントにスキ(noteでのお気に入り機能)され続けている(ありがたいこと)。今日はこのリンクを添えて「おもしろすぎ」とツイートしてた人がいたのを見て「これそんな面白かったっけ……」と改めて疑問に思い、疑心暗鬼というかそういう態度で読み返した。そしたら思ってたより結構面白かった。

多分言ったことないんだけど、自分の根深い性分として「過去の自分を信用していない」みたいなところが確実にある。前向きにいえば「自分は成長し続けている」みたいな確信が常にあって、よって過去の自分は今に比べて未発達で拙いのだ、という公式が自然に根付いており、一年前とかの自分を他者視した上で不審の目を向けてしまう。一年半も前の自分が書いたってことは多分あんまりおもしろくねえな……と勝手に断じて視界に入れないようなところがある。だから同じように一年前の自分は二年前の自分のことを信用してなかったと思うし、今の自分は一年後の自分に信用されてないと思う。

たとえば昔に東京へ遊びに来たとき帰ってから書いた紀行文みたいなやつがあって、わりと思い入れのある記事なんだけど、それはそれとしてこのころの自分つまんねえな~と感じる箇所も結構ある。というかノリといえばいいのか。なんというかねえ……どこかのノリに属したような感じが拭い切れてないというか、ニュートラルになり切れてないというかさ……なあ。おい!!その「追う姿勢」への無闇な傾倒が後の自分の首を絞めることになるんだからな!!!(このへんはひとりごとなので気にしないでください)
呻いたりするほどじゃないけどむず痒くなったりする。とはいえこの記事での自分は確実に何か一種の大切な純朴さをたたえていてとてもじゃないが否定できない(過去の自分を他者視する癖)。

というような性格なので、自身が過去にアウトプットしたプロダクトに対してちゃんと(というか平然と)向き合っている人を見るとすげえなーと思う。なんなら10年前に発表した曲とかをライブでずっと披露し続けてるアーティストを見て不思議な気持ちになったりもする。


というような調子でcubaseを触っていたら昼を過ぎていたので着替えて外へ。

郵便局に行って郵送しなきゃいけないやつを、郵便局に行って郵送した。郵送しなきゃいけないやつを郵送するという「社会」をやっていて偉い。

近所のラーメン屋に入った。

画像3

前に油そばを食べに来たことはあったがラーメンは初めてだった。うまいだろうと期待してたが期待してたよりうまい。箸で捕捉できるようなマグナム背脂がおびただしい量入っている。多かったが腹ペコなので全然食い、気持ち悪くなりながら退店。

野菜って世界一嫌いだけどラーメンに乗ってる野菜は意外と肯定できる(海苔の下にめっちゃほうれん草あった)。

画像4

駅前の書店に行った。ロキノン誌は星野源のインタビューのほかヒトリエや東京事変の特集もあったので買った。ちゃんと追ってるわけでは全然ないが星野源は大好きで、殊に新曲「創造」「不思議」には度肝を抜かれた。諸君、星野源を自分と敵対するマジョリティの象徴だと考えるのは早計である。星野源はおれたちの味方だ。
ギターマガジンは東京事変のギタリストである浮雲の特集が目を引いた。浮雲はビザールギター(変な形のギターの総称)の収集家としても有名なので機材特集は面白そうだなと思い買った。事変の新譜まだ聴けてないけど明らかにすごそうなので早いところ聴きたい。

それにしても書店にいたレジ店員の女性がとんでもない美人でびっくりしたのだが、同時に、書店員の女性がとんでもない美人でびっくりするような生き方を自分が失っていなかったことが意外だった。

画像2

自販機でデカビタ買った。デカビタって一生飲んでる気がする。

そういや中学生のときエナジードリンクをいろいろ飲んで詳しくなることにハマる時期があった。そのせいか未だに各種の特徴の違いがわかる。当時はリアルゴールドがいちばん好きだったけど酸味が疲れるので今はそんな飲まない。なんだかんだデカビタとオロナミンCがいちばん安定していてうまい。しかし後者は内容量が圧倒的に少ないという懸念点があり結局デカビタが好きだ。あとライフガード。

飲みながら帰りつつ久川凪の新曲「14平米にスーベニア」とかを聴いていた。

聴いていたというかここ一ヶ月くらいマジで永遠に聴く羽目になっていて正直助けてほしい。なんかこの曲「久川凪という人物の嬉しい部分」が端的に集約されていてひたすら嬉しいというか、まあめんどくさい言い回しをやめると「死ぬほどかわいくて困る」という一点に尽きる。自分含めたインターネットのめんどくさいオタクたちが「かわいい」という語彙で久川凪を讃えることを頑として認めない、というスタンスを無言のうちに固めて久しく、そんな状況に投下されたこの曲は「認めよ、屈せよ」という圧力すら感じる。なんだこれ。久川凪の話をすればいいのか?するけどさ……

この曲の好きな歌詞を言おうとしたら……


全 部 だ っ た ン ゴ ね え


とりあえず終盤あたりの夕焼けについてのくだりで聴ける「自撮りしても投稿しない」っていうフレーズはグッとくる。というか久川凪って(投稿用とかでなく個人的な感じで)自撮りするんだ……という独特の感動がある。
いやアイドルとしてのソロ曲という背景がある限り「自撮りしても投稿しない主人公を描いた歌詞」を久川凪というアイドルが歌っているだけという可能性も当然あるんだけども。でもやっぱ内容見ても久川凪本人についての歌詞には見えるし、つまりどっちかというといわゆるキャラソン的な聴き方のほうが違和感ないんだよな……というかこのへんに関しては久川凪に限らずアイマス全土で抱かれがちな疑問であるべき気もしてるんだよな……二番の「おむすび食べよう」の言い方めっちゃかわいいよな……

画像5

オタクを轢くトラック「キキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!」

ドンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


いたた……


でもやっぱり久川凪に対して最も思うことを書くなら以下のようになる。
自分が久川凪の話し口を聞いたりするたび、久川凪というアイドルを愛好する意思と両立して明確に思うことがある。それは「こんな14歳は存在しない」という本音だ。

それは当たり前のことで、現実世界の中学二年生なんてちいちゃいちいちゃい存在でリテラシーのリの字もないし(あえてすごい断定的な物言いをしているよ)、こんなウィットに富んで、かつ誰かの影響とか模倣というわけではない自然体の感じも同時にある14歳なんているわけがないのだ。久川凪の人格造型には現実味という値がまったくない。しかしそれこそが、自分が久川凪に惹かれてやまない理由でもある。

久川凪のような14歳は現実に存在しないが、現実に存在しないようなキャラクターがいてはいけない、などという物差しはどこにもない。むしろフィクションとかキャラクターとかそういう虚構文化には、現実に存在し得ないものを仮想的に実現できる、いわば現実の拡張領域としての意義が確実にある。

自分は久川凪に対して、こんな14歳は存在しない、という違和感を本音として抱くとともに、その事実をまったくネガティブなことだと思っていない。久川凪が存在し得ないからこそ、さも久川凪は存在し得るという欺瞞を、自分は必要とする。久川凪のかわいさは、我々が欺かれることで初めて実現するものなのだ。しかしそれはすごくポジティブなことではないか。騙し騙されるという形の、最も優しい利害関係がここにはある。

それが、久川凪という嘘を我々が偏愛してやまない理由なのだ。
久川凪と名付けられたその嘘に、我々は逆らえない。
だから自分は今日も、その嘘に喜んで騙されるのである。


画像6

オタクを轢くトラック「キキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

ドンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


いててて……
もうオタクの話はこりごりだ(泣)


それで帰ってぐだぐだしていたら夕方になってZAZEN BOYSのワンマンを配信で観た。行きたかったなーーー!!!!知らんけど多分倍率がすごくてチケット全然当たらなかった。
配信はというとすごくよかった。今後はもうやらないのだろうと思っていた曲が二曲観られて仰天した。ご時勢のアレでお客は声を出さないようライブハウス側から言われてるっぽく、しかしそのぶん(豊洲のキャパなのもあってか)拍手だけがかなり大きく聞こえてくる。早く世の中が元に戻らんものかなあと改めて思った。


昼のでかいラーメンのせいで全然なんも食べたくないのでもう寝る。昼にでかいラーメン食べた日あるある:夜なんも食べたくない

またnoteでおもしろおかしな感じのやつを書きたいんだけどやりたいのがいろいろあるせいで逆に腰が上がらない。
たしか前も書いたけど、好きな音楽について1アルバム単位で書くディスクレビュー的なものを継続的に出すみたいなこともしてみたくて、でもそういうのって鼻につくよなと思っていつまでも怖気づいている。

なんか今日いっぱい書いたな。誰が読むのやら………


画像7

キキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

うわーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?