罪悪感を手放す

自分のことは後回し。
自分のことは二の次に、夫やこども、親、家族を優先する。
良妻賢母であれ。

私は親や親戚、はたまた世の中からのメッセージを受けて成長したと思う。

それゆえ、結婚後、特にこどもが生まれてから自分のやりたいことをしようとするたび、どこかしら罪悪感を覚える。
自分のために時間、お金を使うと、どこかでざわざわした気持ちになる。
いいんだろうか、こんなことをして、と。

14年勤めた会社を退職後、新しい仕事の紹介を受けた際に「仕事上、こどもを犠牲にすることもある」というフレーズを聞いた。

「犠牲」

その言葉を聞いた時、犠牲ってなんだろうかと気持ちはざわつき、犠牲にするような仕事は選びたくなくて、結果、その仕事とはご縁がなかった。

犠牲とは何なのか。誰がそう感じるのか。

・自己犠牲=何らかの目的や他者のために、自己の時間・労力・身体・生命をささげること。(Wikipediaより)
・犠牲=ある目的のために身命や大切なもの、事をささげること。また、捧げ物。(goo辞書)

言葉の意味を私が聞いた上記フレーズに当てはめて解釈すると、
「親の仕事のために、こどもが自分の大切なもの、時間や労力を親にささげる」ということになるのだろうか。

親が働くには、子が犠牲になるのか?

そこで、私はこどもに「私が働いていたことで我慢した、嫌だ、寂しいと感じたことはあるか」と聞いてみた。
すると、こどもの回答は「特にそう感じたことはない」だった。

私の聞き方が下手だったのと、忖度させたのかもしれないが、言葉通りに受け止めれるならば、こどもは「犠牲になった」とは感じていない。
では、感じているのは誰なのだろうかと考えると、感じているのはおそらく自分。会社員として働いていた際、私はこどもを犠牲にしたと思っていなかったが、どこかしら、こどもを蔑ろにしているのではないかと罪悪感を持つことがあった。
なんとなく、犠牲と罪悪感は近しいところに存在する。
だから、私は「犠牲」というフレーズにざわついた。

犠牲にする、した、とは感じていないものの、未だ自分に時間やお金を使おうとすると纏わりついてくる罪悪感。

この罪悪感の正体を自分なりに分解して考えてみた。
どんな時に感じるのか、それはなぜ感じるのか。
罪悪感の源にあるものは、何か。

頭に浮かんだこと、気持ちを紙に書き出し、書いたことに疑問やそもそもそれって?という前提を投げかける作業を続けた。

その結果、私にとっての罪悪感の根っこにあったのは、「自己決定の不足」だった。

親からの教え、昭和的な世間の価値観もこびり付いていることは確かだが、それを自分に受け入れるかどうか決めるのは自分。
その選択を自分はしたのか、と問われると、なかなか自信を持って選択したとは言えない。自分で選ぶことが甘かった、自己決定が不足していた自分がいた。

自分が何を大切にしたいのか、どうありたいのかを主体的に考え選択し、自己決定していく。それができれば、仮に過去の名残りの罪悪感がざわついても、恐れを抱いたり、怯えることはないし、自分はどうしたいんだっけ?と自問自答できる。

そうした考えにたどり着くと、罪悪感を手放したような感覚になった。


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