呪術廻戦完結!宿儺とは何だったのかを考察してみる
ども、やきこいもです。
呪術廻戦、遂に完結してしまいました。自分が学生だった頃、少年院編を読んで「これは人気出るぞ!」と思ってからずっとこの作品を追ってきました。五条悟の復活説なんてものも書きましたが、今となってはまあそりゃねーかwという感じ。この作品にとって五条悟の死はとても大きな意味がある。まあこの話は別の記事で書けたら書きたいと思っている。
と、前置きはこんなところで。宿儺は色々と謎が残るような終わり方をしましたね。宿儺は二つのきっかけを起点として生き方を変えることが出来た。しかし、結果としてそうはならなかった。それは伏黒甚爾も夏油傑もそう。運命の悪戯というやつだ。この世界の人間の殆どは善人でも悪人でもないという七海のセリフがありましたが、宿儺は悪であることを「選択」し続け、最期まで虎杖を拒み続けた。だが、彼は死後に真人に対してこう語る。
「次があれば生き方を変えてみるのもいいかもしれない」
忌み子として産まれ堕ちた宿儺。そんな彼を蔑む人々の心を、圧倒的力によって畏怖へと変えていった。そんな男が虎杖の憐憫に怒りを覚えるのも無理はない。しかし、宿儺はすっきりしたように他の生き方に関して選択の余地があった事に言及する。
真人「つまんねー!!丸くなりやがって!!」
宿儺「当然だろう 負けたんだからな」
宿儺は本来、どう生きたかったのか?宿儺とは本来どういう人間なのか?
「俺は俺の身の丈で生きているに過ぎない」の意味とは?
多くの人にとって疑問符が付いているのではないかと思われるのが宿儺のこのセリフであるが、この理屈は言ってしまえば、自らの醜い復讐心を正当化、崇高化する言い訳なのである。
宿儺は誰もが知る通り、圧倒的に強い。同じ人間という種に位置づけていいのかというレベルで呪術に最適化された異形の肉体から放たれる力は、人々の感情を軽蔑から畏怖へと変えてしまう。
宿儺は自身が人間という種より上位の存在として位置づけている。そして、俺は人間が他の命を喰らうように人間を喰らうだけなのだという理屈である。つまり、伏黒の理想と実のところはほぼ同じ。宿儺の理想とは、人間の「普通」の生活なのだ。だから、丸くなったというよりは負けたことで復讐心という肩の荷が下りた。次は違う選択肢を選べるかもしれないという希望を抱いて、宿儺は裏梅と共に黄泉へと向かったのである。ここら辺は、生きていた頃は常に北(未来)へ進みづけたが死後、南(過去)に戻った五条悟と共通している(ある意味で宿儺は最後に北へ向かったといえる)死んだ後まで貫く自分の生き方なんぞない。典型的な悪役のように死んだ宿儺だが、彼は「悪役」としての生き方を全うしたのだ。純粋悪の呪霊・真人とはやはり異なる「人間」なのである。
宿儺の術式は「料理」だ。料理とは人間の営みに他ならない。そして「料理とは科学」だ。科学は原爆のような大量破壊兵器をつくったが、宿儺の「開(フーガ)」は、そんな繋がりを想起させてしまう。料理は愛情なんていうが、それが憎しみへと転化することで恐ろしい呪いへと変貌を遂げてしまうという、正に呪術廻戦という作品を表したような術式といえる。
呪術という「空想」に生かされたオタクとしての宿儺
彼の呪術に対する創意工夫は作中キャラクターの誰をも凌駕する。単に呪力量や呪力出力でゴリ押すだけではないのは、閉じない領域とフーガによるコンボ技や縛りの使い方の上手さからしても明白だ。
宿儺と五条悟という同じ最強同士の相違点として描かれているのがvs真希戦である。呪術を自身の快楽の為に行使するのが五条なら、どちらかといえば呪術に自身を行使しているのが宿儺なのである。
宿儺は作中で説明はないが、「天与呪縛」である。そうでなければ圧倒的な呪力量と呪力出力に説明がつかない。だから、宿儺は呪いという力に助けられた存在ともいえる。対して五条悟は呪術なんてなくても何不自由なくデジモンや桃鉄で遊べる。
宿儺は呪術以外での遊びなんて知らないのだ。「呪術」という名のファンタジーに閉じ篭っている間は最強でいられるが、現実はただ醜悪で最弱の人間。それが宿儺という「人間」の悲哀。だからこそ、宿儺は真希に対して矜恃を持って相対する。
そして問題のこのシーン
ハニトラである。勿論、宿儺は千年前にこんな経験はない。こんなもんに引っかかるのは宿儺が苦手とする万くらいなものだろうし、そもそも宿儺は自身のルックスにコンプレックスがあるのでそんなことが出来るわけがないのである。宿儺はオタクだから、こういうのも一回やってみたかったのだろう(ホンマか?)細かいところを見ていくと、宿儺が少し可愛く見えてくる。
少し話がズレました。虎杖は、宿儺を呪術というファンタジーから引きずり出すように彼を弱体化(デバフ)させ、更には何の効果もないただの現実のような領域へと引きずり込み「対話」を持ちかける。宿儺の根底には常識的且つ、思慮深いところがある。宿儺が漏瑚に対して慈愛を見せたのは、人間(の位置に)なりたいと思う漏瑚の生き様に共感していたからだろう。
領域内では虎杖の考えに一定の理解は示すが、「何も感じない」という。ただの宿儺の意地っぱりなのだが、こういうところが宿儺の人間くささだ。
「両面宿儺」という異名
無論、「両面宿儺」というのは異名であり、本名ではない。彼の肉体が伝承の両面宿儺を想起するということから名付けられたというが、両面宿儺は英雄としても悪鬼としても語られる人物である。
どちらにしても宿儺の理想である「普通」からは程遠い人生を決定づけられた異名だ。天元はせめて宿儺を英雄として見てもらいたかった。しかし、民衆は宿儺が力を得る前には侮蔑を、そして力を得た後は彼を恐怖の対象として捉えたのだろう。
裏梅は唯一、自分を信望してくれた存在なので大変仲が良い訳である。宿儺って可哀想で可愛い奴だろ?
宿儺は復讐として、民衆が思うような醜悪な存在として生きていくことを「選んだ」。
(恐らくは)天元か裏梅と慎ましく生きる選択肢もあったが、既に宿儺の中には民衆に対する「呪い」が強く渦巻いていたのだろう。結果的には夏油のように運命の悪戯が彼を復讐へと導いたのかもしれない。
まとめ
宿儺は一見死を恐れて逝ったように見えて、実はただ典型的な悪としての宿儺を演じきっただけなのだろう。そう思えば死後の真人との会話は自然に映る。それを小僧如きに見透かされて慈悲をかけられたのが逆鱗に触れた訳だが(俺は裏梅と一緒にいてーのにさあ…)、まあ概ね満足して死んだのだと思う。皆さんも虎杖のように、ヤベー奴には憐憫を垂れ腐ることをオススメする。
五条悟も責任ある大人として、先生として死んだ。実際はただ宿儺との戦いを楽しみたいだけだったが(笑)
五条悟は伏黒がうっかり死んじゃったらそれはそれで仕方ないと思っていたのではないだろうか?こういうところが五条悟らしいというか、そこら辺の先生キャラとは一線を画すキャラクター造形(ズラし)だなと思います。宿儺が千年前に産まれた頭現代人なら、五条悟は現代に生まれた頭平安野郎というところか。
宿儺も敢えて過去を明確には見せず匂わせる程度で終わらせたのも良かったと思います。なぜなら宿儺は本来普通に良い奴だから、「結局良い奴なんかい」と、陳腐化してしまうよりは良かったんじゃないでしょうか。まあ俺は羂索も宿儺も作中でトップレベルに好きなので、過去編見たいんですが…。
こんなアンチ少年漫画的な作品が28巻にして発行部数一億部を突破というのが芥見下々という作家のバランス感覚の凄さだと思います。ここまで現実や人間の複雑性を描いてくれるのが嬉しかったし、逆張りと揶揄される展開も多いけど、「ちゃんと」逆張りしてるんですよこの漫画は!最終回も凄く明るいって訳じゃないけど、ささやかな希望みたいなものが凄く沁みました。
って感じで今回の記事は終わり。芥見先生の次回作に期待します!
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