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「働く」の裏に隠れている2つの職業観

世の中の職業をこんなふうに2つに分けてみる。1つは基本的に「この仕事をやりたかった」という人だけで担われている職業。もう1つは「この仕事をやりたかった」という人だけでなく、「仕方なく」「たまたま」という人も数多く流入してくる職業だ。前者の典型は、例えばプロ野球選手だ。実際に「仕方なく」「たまたま」選手になった人は皆無だろう。

プロ野球選手なんて例に出すと、「この仕事をやりたかった」という人だけの職業は極めて特殊な印象になるが、実際はそうでもない。その仕事をやりたいと思うならそれなりの能力や適性、努力が必要で、その仕事に就いた後もレベルアップを目指して常に研さんを積む必要がある職業であるなら、全て含まれる。もちろん、なかには「仕方なく」「たまたま」その仕事に就いたという人もいるかもしれないが、あくまでもレアケースのはずだ。

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職業観をこういう2つに分けるのはいろいろ示唆深いなと感じた。

働きがいや学習意欲など、働くことについての意識調査を読み解くときに、この2つの職業観を因子としてみると、なにか見えてくるんじゃないんだろうか。

「仕事内容」「人間関係」「勤務時間」など、働きがいに影響を与える要素。これらの要素と働きがいとの関係の裏には、自分の仕事を《この仕事をやりたかった》と捉えているか、《仕方なく》《たまたま》と捉えているか、という職業観の違いが横たわっている気がする。

「日本の大人は学んでいない」といった統計。この数字の裏にも、2つの職業観の違いが隠れているのでは。《その仕事に就いた後もレベルアップを目指して常に研さんを積む必要がある職業》かどうかは、おそらく、学習意欲に関係してくるだろう。

気をつけたいのは、2つの職業観の間に、倫理や社会規範的な意味での優劣はないと思っている。そうではなくて、あくまで、個人の幸福感の問題。「仕事とはかくあるべし」ではなく、「私はどうありたいか」。そこを履き違えて、《仕方なく》《たまたま》働いている人を責めると話がずれてきてしまう。

今後、誰かからキャリアの相談を受けたり、誰かとキャリア論について話すときには、この2つの職業観を枠組みとして持ってみようと思う。いままでと違う話ができる気がする。

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