生きる事と死ぬ事 長野の山奥から
長野県の南アルプスの麓で医療や介護事業、リハビリに携わる32才の私が、生と死について経験を交えながら考察して行きたいと思います。
私は最近、人が死ぬ事を見つめてから大きく生き方が変わりました。
「人が生きること」
僕らは小さな時から生と死が対義語の様に教えて込まれてきましたが、どうも最近それが違っていたと感じています。
最近、特に生きる事、生き方について悶々と考えることが多かったのですが、ここに答えのヒントがありそうです。
それは現代の医学の進歩がこれほど大きくなっているのに幸福度が改善されていません。
これは「生きること」が生命が維持されているという定義だけで良いのかという疑問につながります。
つまり生命維持が容易になったところで一向に幸せになんてならないという事。
僕の中で印象に残っている素敵な生き方だと感じた方がいます。
一人は肝臓がんで余命宣告されていましたが、それから抗がん剤をやめ、毎日晩酌して、通販でつまみを取り寄せてフラフラしながら毎日過ごしていました。その方は余命宣告から1年半以上も生きられました。
もう一人は、最後まであちらこちらに彼女を作っていた方です。おかげでその方の最後に立ち会ったのは偶然か愛人だった様です笑
愛人の倫理観はまぁアレですが笑
生命維持としての「生きる」に傾倒した医療の進歩など人類にとって大して意味のないものになってきてるのは確かだということ。
「人が死ぬこと」
これは紛れもなくこの世から意志を持った生命体としての存在がなくなる事です。その状況によって、残された周りの人は悲しみを受け止められない人もいますし、大往生だと安堵の表情を浮かべることもあります。
人は亡くなった瞬間から、その精神は分散されて周りに人の心の中に散って生きます。
つまり僕らは「生きる事」は手にしていますが、「死ぬ事」に関しては他人のそれを自分の感情に残すことしかありえないのです。
そして49日もすると社会は何もなかったように動いていく。
今まで亡くなる場面に関わってきた方も同様に49日というのは目安になっています。
誰が考えたかこの49日とは絶妙な日数です。笑
まぁ、自分の影響力ってもっとあるんだっ!て思っている方からすると疑いたくなる気もしますが、あの有名な野球の星野監督でさえ亡くなってしまえばそれが普通の世の中として時が流れていますよね。
僕の様な凡人であればなおのことすぐに忘れ去られます。
忘れ去られる..... ( ´Д`)y━・~~
だとしたら、だとしたらですよ?
たった2ヶ月もしないうちに、みんな僕のこと忘れるんでしょ!?
そう思い、それを受け入れたときふとこんな考えになります。
誰かに迎合して、誰かの人生を生きても、社会は僕のことをせいぜい2ヶ月でなかったことになるよねと
これはトーマス・エジソンの電球以来のヒラメキです💡
「生きること」=「死ぬこと」
こうして、これまでの私の体験から二つの言葉を読みとこうとすると同じ結論しか出てこなかった。
自分の気持ちに対して嘘をつかずに人生楽しんでますかってこと。
誰々が言ったから。
決まりだから。
法律だから。
僕もずっとこんな風に人のせいにして生きてきた。
でもそれって今思えば「死ぬこと」と同じだなって思ってる。
そういうと厳しく感じるかもしれないが、辛いことから逃げるなって言ってるんじゃない。逃げるんなら徹底的に逃げればいいし、自信を持てよってこと。
逆に戦うんなら負けることを考えずに戦い抜けってこと。それで結果負けたらそれに勝る経験はない。
全力で社会と戦う必要なんてない。
でも少なくとも自分だけは、全力で自分の心を信じるんだ。
みなさんの明日がちょっとでも明るくなります様に。
実はこの企画、The Arth という医療関連職コミュニティの同タイトル企画になりますのでぜひ比べてみてください。
https://note.mu/musemew3875/n/nc0bf3d22de39
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