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自分がイヤなことは相手にしないの罠

「自分がイヤなことは友達にしないように」

この言葉、相当罪深い。

学校教育の中で、誰もが取り込んでしまった、間違った考え方。

「良かれとおもって」やって、いやな気持にさせる主たる構造。

このように、表にしてみるとコミュニケーションのバグがわかりやすい。

自分がイヤなことでも、他人にとってはうれしいことは普通にある。

自分がセロリが嫌いだからって、
「セロリがないごはん屋さん用意したよ?」といわれて困るセロリ好きが、世の中には山ほどいる。

逆に考えてみよう。

グリンピースが好きで、日本一おいしいグリンピースを送ったよなんて言われても、グリンピースが嫌いな僕には嫌がらせでしかない。
君が好きだからといって、なぜ僕に喜んでもらえると勝手に期待するのか。それでも、大人だからありがとうというでしょう。

日本人が慣れ親しんできた、自分がされて嫌なことは他人にもしないようにするというのは、他者の存在を自分の一部のように考える。

だから、自分のように他人を守ったりもできる。日本人が集団スポーツが強いと言われているのはそのせいかも知れない。

そこで、本来僕らが学んでこなければならないのは
「相手がイヤなことは相手にしない」ではないか。

言葉にすると当たり前すぎる。当たり前すぎるのにやってない。
なぜか?

相手のことを知るためにコミュニケーションをとる必要があるから。
「自分がイヤ」を中心に他者をみるとき、コミュニケーションなんていらない。思い込みで適当にしとけばいい。他人と、自分が違ったら困るのだ。

私がイヤなことも、沢山の人がイヤなことも、目まえのたった一人の利用者さんにとってイヤなことではない。から、知らなきゃいけない。

目の前の、ほかに再現性のない、個別性の高い、一人の利用者さんの、いやなことや、うれしいことを。

目の前の、自分とは完全に違う、他人であるその人の気持ちが本当に起点になっているだろうか。


この話は、おせっかいの具体化と配慮としての具体化のお話です↓


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