ときどきモンゴルを思い出す話

1991年、14歳の時に内モンゴルに行った。
母が新聞で見つけてきた記事には、日本の子供と内モンゴルの子供を交流させるプロジェクトとある。
行ってきたら? と母は言った。

昔から、一人でサマースクールやスキースクール系に放り込まれる子供だった。いまなら母の気持ちがわかる。
長い休みに家にいる子供ほど手のかかるものはない。

夏になり、神戸からヤンチン号(記憶違いでなければ燕という字が入っていた)で天津へ。
台風がきていて、船は大いに揺れ、船酔い続出で船内はひどいありさまだった。揺れの感覚は陸地に上がってもしばらく続いた。

そこからバス三台を連ね、荷物輸送になぜか佐川急便のトラック(流れ流れて中国で転用されていたもの)が並走する陸路移動を数日、その年は水害がひどく、道が水没している中をバスが走ったりもした。
三台まとめてスタックして、軍の車に引っ張り上げてもらい、そのときワイヤーがはじけて一台のバスはフロントガラスが割れ、そのバスの人たちがしばらくトラックの荷台に乗っていたのがうらやましかった。

空は広く、まだ山があるから本当の草原じゃない、と現地の人たちが言う風景は何も遮るものがない。

夜、山の上でだれかが焚き火をしているような赤い光が見え、しばらくするとそれが夜空に上がる途中の赤い月だとわかったりもした。

解体した羊の肉とピーマンと砂糖がけのトマトが主食、男子はどんどん意気消沈していき、女子はたくましく元気だった。
給水車に汲んできた水を沸かして飲む、その水をポリタンクにいれるためにまずホースを吸って水を呼び込む。躊躇していたら、陽気な3人組の男の子たちがやってくれた。
余談だが、そのうちの一人は、翌年バイク事故で亡くなったのだった。片思いしていた女の子が泣いて泣いてかわいそうだったな。

夜は真の闇、暗いオブ暗い、トイレには懐中電灯片手に連れ立って行く。
お尻は家畜仕様の蚊にやられて、しばらく跡になるほど腫れて痒かった。けれど天の川をはじめて見た。
本当に天地が逆転するような、吸い込まれるような感覚があった。

大人になってときどき、あの場所は、あのとき会った人々は、今一体どうなっているだろう、とふと思うことがある。

中国も内モンゴルも環境は激変しているだろう。
旅の途中に泊まらせてもらった、あの土壁の家で、またはゲルで、古くからの伝統を守り暮らしていた人たちにも、私と同じく三十年ちかくの時間が流れている。
バターの入った甘いミルクティーは、今飲んでも同じ味だろうか。
人懐こい犬たちはもう何代か代替わりしているだろう。

今思えば、現地の生活にお邪魔させていただき、同じ空の下でリアルに人が生きていることを身体や記憶に刻みつけるような旅だった。

旅行に意味を求めることは好きではないが、まだ若いうちに国内外での体験をさせてくれた両親には感謝している。
海外のニュースを聞くとき、そこが行ったことのない場所でも、容易に想像ができるようになったと思う。

地球の裏側くらい遠いところでも、赤ちゃんが生まれたり、朝ちゃんと起きて、食べて、仕事して、排泄して、眠る人々がいる。みんな自分と同じように、笑ったり泣いたり悩んだりしている。

難しい問題はいろいろある。
だからといって生死に関わる制裁をしていい理屈などないと思う。

どうか今年もみんな笑顔で年を終われますように、年のはじめなのに、いつか訪れた国のことを思い出しながら、そんなことを思っている。

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