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音の記憶

引っ越ししたいと思いながらなかなかできておらぬ(note)今日このごろ、とりあえず書かないと忘れるので書いていく。一括で引っ越しできないのでちょっとしんどいなとは思うが本当に忘れてしまうので……

左目の黄斑にまたなんかあったっぽく、片目だけでピントをあわせるとど真ん中だけ消えるので、子供たちと一緒に眼科にいったついでに定期検診を受けた。
その一環で視力検査をしたら、視力はいいのにセンターが見えないせいで、指されているマークをみるときはしばらくまわりのマークをぐるっと眺めて、白目の部分(イメージ)で確認するという感じだった。

暗い星を見る時は黒目ではなくそのまわりで見るから、3等星を探すときはピントをあわせるとわかりにくい、という同人誌で得た知識があるのだが、それって本当なんだろうか……と不意に思い出した。90年代、ツイッターもないころ、同人誌とパタリロは無駄な雑学が増える本であった。

そういうわけで右目はまた出血しているようで、以前診てくださっていた先生が大学病院から違う病院にとらばーゆ(なつかしい)してしまったため、その病院へ紹介状を書いてもらった。

かなりの大病院だが、行ったことがないので無事にたどりつけるか心配だ。そこの近くに試写室があって、若かりし頃、ご縁があってカウボーイビBップの劇場版の試写に行ったら背景が完全にダミーでびっくりしたのを急に思い出した。そのとき、部署が違うのに、よく面倒をみてくれた同じ会社の女性の先輩と一緒にいったのを思い出し、あのときなぜあの人と一緒にいったんだろうか、ということまで思い出した。

老人の記憶ってこういう感じで、ボケたら、閃いたその光景が今か過去か妄想かわからなくなり、ただひたすら「今の現実」となるのだろう。私は無駄に連想力が強いのでいまから老後が怖い。

今日の夕飯はぎょうざにした。前回、塩こしょうで味付けしたら完全に無の味(味がないただのかたまり)で白目になってしまったので、今回はチューブの中華みそ、シャンタンをうねうねと投じた。ちなみに私の名誉のために言いますと、メシマズなことってあまりなく(たまに薄味すぎるとは言われるが、薄味は足せばいいだろう派)、捨てるほどまずかったのは塩サバでサバ味噌を作ってしまった時くらいだ。

結婚したての当時、私は塩サバの存在を知らなかった。というか、サバと塩サバがあることを知らなかった。でも夫がサバ味噌が好きというから作ったのだ。そういう殊勝な時期もあったんす。

サバは実家がかつて営んでいた店の宴会でサバずしにあたった人がおり(アレルギーで)救急車を呼んで大騒ぎになったという伝説があった。それがかなりインパクト大だったようで、サバは実家では忌避され、食卓に上がったことがなかったのだ。
なお若い人や海に近いところに住んでいる人からしたら嘘のような話だが、大阪のベッドタウンである北摂では、40~50年位前までは魚を輸送する手段がいまいち発達してなかったので、近所の魚屋で売っていて、日常で食べられる海の魚ってそもそも、ちりめんじゃこや干物とか棒鱈くらいしかなかったんすよ(淡水魚は新鮮なのがあったかもしれないが)。
近所の寿司屋でとる出前の寿司の、まぐろもくったりしたやつしか記憶がないので、冷凍だったのだと思う。海も市場も近い大阪の中心街で育った母からしたら、食事のレパートリー殺しだったことであろう。

こうやって連想でどんどん本筋からそれてしまうが、本題に戻ると、ぎょうざは結構な数を造るため、みじん切りが面倒なのでフードプロセッサーを取り出して野菜を刻んだ。
長男を生む前に実家で買ってもらったやつで、その離乳食のときには大活躍していたが、娘と次男のときには取り出した記憶がない。記憶喪失かな。

チャーンと音を響かせながら野菜を粉々にしていたら、急に祖母のことを思い出した。当時私はぼろぼろになりながら東京で働いていて、月一くらいで帰省して顔を見に帰っていた。いちばん病んでるときは毎週帰ってたな。顔を見るというより、自分が病んでいたな(いろいろ思い出した顔)。

就職したてのころは、新幹線の終電で帰ってくると、真っ暗な家の前におばあちゃんが立って待っていてびっくりしたものだ。タクシーに突っ込まれたらどないするんや。そうやって祖母は昔から、学校、習い事などなど、私が帰る時間には家の前に立って待っててくれたのだった。

でもそのとき私の脳裏に閃いた当時の祖母は絵にかいたような認知症で、寝たきりで、でも体力は無駄にあったので、夜中は「兄さーん」と結核で早世した兄を呼び続けていた。私は息子(父)に似ていたのか、よく父と間違えられたものだ。

夜行性の私と認知症の祖母は、活動時間、祖母はただ目を開けているだけだけど、それが似てて、朝方眠る前に顔を見に行くと、ぱっちり目をあけていて、おやすみといってから寝にいっていた。

昼頃まで実家の布団でうだうだと寝ていると、食事のころ、きまって鳴っていたのが母の使うフードプロセッサーの音で、祖母の食事はどんなおいしそうなものもすべて、粉々のどろどろにして食事に出していた。

祖母がまだ食卓に座れたころは、首にかけた涎掛けの長いやつみたいなエプロンを食卓に敷いて、姉が体を鍛えるために持っていたダンベルがふたつ、食卓の真ん中あたりに重しとして置かれていた(床にこぼさないため)。それはとても衝撃的な光景で、母と姉はとても現実的で効率的な人で、私のような情緒は持ち合わせていないからなと思ってショックだったけど、祖母の介護、店の状況、すなわち自分たちはもちろん社員の生活の心配などなど、緊迫感のある心配事がない日などないあのころ、ただひたすらそんな余裕がなかったのだろうと今ではわかる。

フープロの音だけで、ソレイヤードの柄のエプロン、電動ベッドの音、祖母が食事に使っていた姪の離乳食用のスプーンの色などを鮮明に思い出したのだった。

ただそれだけなんだけど、本当に10年、15年が経つのが早くなったように感じている。

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