天狗がいた
いろいろ思い出したので。与太話です。
ある種の姉という生き物は、非常な暴君である。そうじゃない姉もいますが、生まれたときから逆転不可能な序列、体格、能力差のある存在がそういう気を持っていた場合、ありていに言ってその弟妹は地獄を見る。兄もまた然りではなかろうか、いないから分からんが。
そんなわけで非常におっとりした3番目の姉以外のふたりの姉は、私にとっては脅威であった。
たんに性格があわなかったのもあるし、互いの幼さもある。
家族、兄弟というものは、傷つけあって成長する過程も、常に生活の場が同じで、傷が乾かぬうちに戦うみたいな、クールダウンの場所も時間もないような距離がつらいことがあるように思う。あくまで私の場合であるが。
長姉は年が離れているのもあり、気まぐれで力も強いし私の中では怖い人だったのだが、幼かった彼女がめちゃくちゃ恐れていた存在がいた。
天狗である。
なぜ鬼やおばけでなく天狗だったのかはわからない。ただ座敷で子供3人(末っ子のわたしは祖母と寝ていた)、枕を並べて寝ていた姉が、仏間を隔てて眠る両親のもとへ駆け込むときは、だいたい天狗の怖い夢を見たときだった。
幼い頃から脚力が強く、群を抜いて走るのが早かった姉だが、バレエを習っており、太い足がコンプレックスだった(言及しようものならふっとばされるやつ)。
夢に現れる天狗は姉の足をぐいと引っ張り、
「足をなごしてやろうか。足をほそしてやろか」
と言う。恐ろしくてたまらなくなり、飛び起きて両親の布団に駆込む。
というのが長姉の悪夢のパターンだった。
時を経てそんな悪夢も見なくなった頃、長姉と3番目の姉は鎌倉へ出かけた。二番目の姉が東京の大学を受験するに伴い、付き添って上京したついでに観光に行ったのだ。
そこでぶらぶらと市街を散策しているうち、天狗のお面が一面に飾られた山寺に迷い込んでしまった。
長姉は私からすればスーパーデリカシーなし子なのだが、霊感的なものがあるらしく、犬が死ぬ前に人魂を見たのも、祖母が亡くなる前に家に帰ってきた(たぶん)のを見たのもこの姉だった。
ある占い師のおばあさんの家で、祀られている龍の入った祠のある部屋の方向に向いた腕だけ鳥肌が立つみたいな体験もしていて、私には言わないが、そういうことがたまにある人なのだろう。
全身に鳥肌が立って、とにかく早く帰りたいとなり、山を駆け下りて帰ってきたという。なんで天狗なんや。という話をしていた。
姉は姉なりの繊細さがあるのはわかっていたが、人のそういう話は「気のせい」で片付けるタイプなので、珍しいこと言ってんな、と思ったことを覚えている。
また時が立ち、お酒が好きで社交的な長姉の友人の一人がお店を開き、そこによく遊びにいっていたときのこと。そこに来たいわゆる霊感のある人に、「あんたの家の工場には天狗がいる」と言われたらしい。
再び鳥肌ボワッ、である。
確かに、近寄りがたい雰囲気のある一角はあった。ただ、薄暗いのでそう思うのかな、などと幼心に思っていたのだ。従業員のおじさんたちは普通に働いているわけであるし。
やがて時が立ち、私の生家は紆余曲折があって人手に渡り、怒涛のような引っ越しの翌々日には、工場ともども解体され、更地になり、いまはもう見る影もない。
ときどきふと、工場にいたあの天狗はどこに行っちゃったんだろうと思っていた。
そこにいたということは、私の家を、家業を守ってくれていたのではないかと思っていたので。
その後、体調不良を引きずりながら転職した夫が、会社の上司にある整体師さんを紹介された。
その人はいわゆる「気」も見る人で、会社の「気」が淀んでいないかなども見られるという。夫の腕の痛みをさっと払う仕草だけで取ってしまったらしく、半信半疑ながらも、「不調がとれるならいいか」と夫はときどきその方の施術のお世話になった。
自宅のどこそこに盛り塩するといいよとか、軽いアドバイスをしてくれることもあり、夫の話を聞いているうちに、私はふと実家の天狗のことを思い出した。
尋ねてくれるように頼んだところ、その方の答えはこうだった。
「天狗って自然霊のようなもので、パワーの象徴というか……逆に、それがいなくなってしまったから、家業が傾いたのかもしれない」
なんとなく腑に落ちるものがあった。
もちろん家業がうまく立ち行かなくなったのは、商才だったり、運だったり、時代だったり、いろんな要素がある。防ぐことも不可能ではなかったはずだが、力及ばずだった。いまあるのはただその結果だ。
そして大学卒業とともに家を離れ、ただ見守ることしかしなかった私にそれについて口出しする資格はない。
父も、姉も、母も、あの沈みゆく家で必死でもがいていた。自分たちなりに、できるだけのことはしようとしていた。それに対して、お疲れ様と声をかける資格さえない気がしている。
家業を潰すとき、ほうぼうにご迷惑をおかけしたから、これは身内の主観的な感傷でしかないのだけれども。
莫大な借金(遺言が「山は買うな」ですよ、山買って負った借金がすごくあったと聞いている)を、社長の曽祖父が急死したせいで大学を出てすぐ負うはめになり、いきなり社長になって継いだ店でなんとか返済し終え、四人の娘を育て、病気がちだった母親もなんとか見送るまで、天狗が父に力を貸してくれたように思えてならない。
高度成長期の奇跡や、曽祖父の人徳というか、まわりに見守り育ててくださった方々も多かったろうし、もちろん父の頑張りも大きかっただろう。でもいつコケてもおかしくないような綱渡りを何度も経て、家族全員がなんとか自立できるところまで、天狗は猶予してくれたんじゃないか。
だから天狗が去ったというのが原因というよりは、諸々の要素がやがて終わりに向かう気配に、山に帰っていったんではないか。
そんなふうに思ったのだった。
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