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父らしくない文章

父から手紙をもらったことがある。

父から娘への手紙で、内容はとても愛深いものだったが、そこには「矜持」やら「享受」やら「日本の風習」とやらセンター試験の課題文かなということばを使った手紙だった。

父の妹であるおばさんは、父が一人暮らしする大学生時代に手紙を書いたら、返事ではなく添削が返ってきて、それ以来父に手紙を書かなくなったそうだ。

国語の教師をしていた父。

父の文章は軽やかだけど少し難しく、読み応えがあるものなのだ。

そんな父が最近、ある文章を書いた。

喪主の挨拶文。

父の母である祖母が亡くなった。
葬儀の場に父はいなかった。
術後の入院中だったのだ。

妻である母が喪主代理として、葬儀を執り行い、
父にひとつだけ仕事を頼んだ。
それが喪主挨拶。
母は父の文章を代読すると言った。

祖母の死に会えなかった父。
どんな文章になるのだろうか。
いつもの感じなのかな。
葬式っぽい挨拶ではなさそうだな…

と読み上げられた文章は、

優しい、おだやかで、肝の座ったおばあちゃんが
頭の中で再現できるほどの、
父から祖母への愛の手紙だった。

いつもの難しい感じではなかった。

推敲した感じがしなかった。


ありがとう、長生きするよ。

入院中の言葉として最高のことばだと思う。
少なくともいつも「短命でええわ。夕顔みたいに華やかにな」とか言う父の私たち家族にはそれがとてもとても心にきた。

列席者にも長生きしてくださいと。

高齢な方々が多い列席者に向けられた父の想い。優しい祖母の心の声だろう。

久しぶりに触れた父の文章は
父らしくない、息子らしい、父の文章だった。

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