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2021/10/2 白饅頭日誌:暗黒メモ「『萌え絵』がNGになる本当の理由」への長文コメント

※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。

ここの議論を読むと9月頭の藤田孝典vs宮台真司バトルを思い出す。

この話の前段として9月頭に宮台真司がTwitter上で売春に関する講釈を打っていたわけだが、この先生の過去の仕事を著書で知っていると理解が深まりやすいと思う。

白饅頭氏の指摘で気になった点

さて、元の大阪府のガイドラインに関して白饅頭氏が指摘しているポイントはここだ。

 だが、漫画家も表現の自由界隈の人びとも、そのほとんどが決定的に勘違いしていることがある。かれらは意趣返しは反論のつもりで「表現のガイドラインがあるのだったら、具体的にどのような萌え絵(表現)ならばセーフか?」といった議論を提起しているが、それは実際には成立しえないのである。つまるところ、あらゆる「萌え表現がアウトだ」とこの「ガイドライン」あるいはガイドラインの記述者は言いたいのである。
 「ダメな表現を規定するガイドライン」なるものが出されている以上、裏を返せば「公共性のともなうセクションでもOKになる萌え絵・萌え系表現」があるとてっきり思ってしまうかもしれないが、繰り返し強調するがそんなものは存在しない。この「ガイドライン」が実質的に狙っているのは萌え表現の公共空間からのBANである。

そして論点は以下の通りだ。

 「現実では絶対に性的魅力を味わわせることなど女性は絶対にしないであろうキモいオタクに対して性的にサービスしていること」が問題視されるのだ。
 現実の女性があえて性的魅力を味わわせたりすることは絶対にありえないはずの人間に対して、女性(あるいは女性キャラ)が性的魅力を提供しているということは、その女性(キャラ)は人格を奪われ、性的に搾取されている――というわけである。
 とくに「萌え絵」が毎回のように激しい糾弾を生むのは、その絵に描かれたキャラクターには人格のなかでもとくに拒否権がないからだ。「自らの意志によって(キモいオタクたちを性的に喜ばせることを)拒否することのできない女性」をつくりだして、キモいオタクが女性の性的価値を勝手にエンジョイしていることは、たとえその存在が非実在の女性キャラであったとしても、それによって間接的に私たち女性の尊厳が傷つけられている(キモいオタクに対して断固として性的価値を提供しないという私たち女性の拒否権を間接的に棄損されている)という感覚に陥いるのだ。
 つまり、身も蓋もない表現をすれば、フェミニストが「萌え絵」を見たとき、間接的に強姦されているような気分になってしまうのである。
 通常であれば絶対に女性に触れることも、見ることすらできないような男たちが、うむを言わせず「拒否できない女性」を用意して性的に楽しんでいるなど、まさに女性全体に対する権利侵害であり差別である――と。

そしてこうも指摘する。

 もっとわかりやすくいえば、「萌え絵」が自分たちだけでなく、実は一般男性や一般女性層からはそれほど好まれておらず、むしろ少なからず不快に思われているのを、彼女たちが肌感覚で気づき始めたのだ。

結局はTPOという和製英語で言われる問題で終わる話なのだが、行政広報のガイドラインなんだから「勝手にしやがれ」だろう。

これは有害コミック規制騒動の再演ではないのか?

有害コミック規制は以前も触れた。

スタート単なる嫌悪感なのである。前出の白饅頭氏の記事から引用しよう。

 さらに突き詰めて言い換えれば「本来なら女性に触れることすらできないであろう弱者男性をあえて喜ばせる(≒私たちへの間接的な強姦をゆるす)女性あるいは女性表現」は、フェミニストだけでなくそれなりの割合の一般女性にとっても生理的不快感を惹起する存在であることに、フェミニストは気づき始めたのだ。
 もはやいちいち強調するまでもないが、フェミニストにかぎらず一般女性でも弱者男性を好きなわけではないし、彼らが女性を性的にまなざしたり自慰したりする権利を擁護するために立ち上がることはない。むしろ弱者男性のそうした個人的快楽を得る権利は、女性の権利や心理的快適性とバッティングしているため、これを積極的に排除することにインセンティブがある。
 フェミニストたちがそのような「気づき」を得た詳しい経緯は断定的にはわからないが、おそらくは現代社会において一般女性が「うっすらとフェミ化(お目覚め)」していく流れがブームとなって可視化されたこととは無関係ではないだろう。「過激なフェミニストに全面的には賛同しないけど、でもフェミニストが言うように女性は差別されていると思う」「フェミニストはあんまり好きじゃないけど、街中に女性の男性向けのエッチな写真やイラストがあるのは問題だと思う」――という一般女性たちの素朴な感情は、日本のみならず全世界的に高まっている。フェミニストもそのような「風」を読んだのだ。
 「フェミニストによるお気持ち放火攻撃とそれに対する表現の自由戦士たちからの反論」は、2010年代までは、しょせんSNSをその舞台に限定した「ポケットの中の戦争」にすぎなかった。
 だがフェミニスト側はある時、これが自分たちの「単なるお気持ちの叫び」にとどまらず、世間一般の女性の道徳感情や心理的快適性にもとづく「コモンセンス」のレイヤーの議論に発展させることは十分可能であり、なおかつそうすることによって自分たちの目標はより早くかつ確実に達成できる――と気づいたのだ。
 そして今回そのための「一手」として、行政のガイドラインへの具体的介入を敢行したのだ。
 行政のガイドラインに介入して「萌え絵はよくないもの」という価値判断を示させることができれば、これは単なる「お気持ちクレーマーの叫び」ではなくて、社会通念として共有された「コモンセンス」にすることができる。そしてその「コモンセンス」には、一般市民からの異論や反論が寄せられることは少なく、とりわけ世の多くの一般女性が大なり小なり賛同する。
 今回の騒動で「なぜ突然行政にフェミニストの影響力が現れたのか?!」と驚かれる人は多いかもしれない。しかしながら、これまでだってフェミニストはやろうと思えばこの問題をいつでも「行政イシュー」にすることができた。あまり知られていないが、すでに国や自治体におけるフェミニズムの影響はきわめて大きい。たとえば令和2年度における「男女共同参画」を推進するための関係省庁の施策の予算は合計で10兆円以上を計上している)。また内閣府の男女共同参画局の有識者会議には、表現規制を推進する組織の急先鋒のひとつである日本キリスト教婦人矯風会も参加している。
 もちろん、この賭けに100%勝てる保証はどこにもない。当然ながら、対抗勢力からの反発もあるだろう。行政とくに大阪というのは、「声の大きな『市民』」に対してめっぽう弱いという伝統(闇)があり、状況はおそらく二転三転していくはずだ。

そしてフェミニズムが社会的性差別に対して敵味方図式を採用するのと同じように、「宇崎ちゃん」ポスターへの不快感を萌え絵全体への不快感に拡大させ、下品な表現を取り締まれ!という方向へ昇華させた。

実際のところは下品さであったのにもかかわらず、戦線を拡大させてしまって大丈夫なのかという疑問はさておき。

そして萌え絵というカテゴリーをアウト判定に持ち込んだまでは良いのだが。全称命題的なカテゴリー差別主義の危険性を感じてしまう。

具体的にはこんな感じである。

言ってしまえば、大阪府のガイドライン策定の圧力の背後には、個人的な不快感に駆動された神経的症状をを呈する集団が居る。

最後に

感情のフック( http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1027 )にご用心という話である。そして本来はどうでもいい話に白黒を付けろとカマを掛けるやり方は、典型的なオルグの手法であることに注意されたい。

白饅頭氏もこう指摘する。

 「キモいオタクが勃起して喜んでいるような萌え表現は、公共空間には要らないですよね?!」と呼びかけられたならば、世の女性たちは表現の自由戦士よろしく「いや、そんなことはない。それも日本国憲法で保障された表現の自由のひとつだ」――などとはもちろん答えない。そのような問いにだれもがやんわりと首肯しながら「そうですね、そんな表現はよくないと思います」と答える。それが素朴な感情というものだ。
 私たちは、自分が自由にふるまうことは大好きだが、他人の気に入らない自由を尊重したいなどとは思わず、あわよくばそれを封じ込めたいとすら感じている――それこそが人情、あるいは人間性というものだからだ。

そう言えばこんな事件もありましたね。

結局は女の敵は女、ということなんですかね。

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