brothert354氏への私信
長文のコメントを頂きました。今回はいただいたコメントを検討しようと思います。
第二次安倍政権は日本を再興したか
先にコメントの後半から見ていくと、『「滅びの道を歩いているらしい」日本の寿命を延ばした』のは確かです。だから「現状の仕組みにしがみつく」動機がある、という一般論があるわけですが、宮台氏の他の著書等を見ると、ざっと
イメージが無いので非自民政権に賭けるというリスクテイクができない
若年層は保守的というよりは保身的である
という点を指摘しているわけで、「しがみつく」ほど積極的な選択ではない、という見方をしています。
だから「いつまで延命するんですか?」という加速主義の立場を宮台氏が標榜するのも理解できるし、2012年の第二次安倍内閣誕生も、2016年のアメリカ・トランプ政権誕生も、「壊し屋」の役割を期待するという"ひねくれた"支持を表明していたのも理解できる。
延命しようが、自分が生きている間は乗っている船が沈むのか否か、という違いは大きいですし、その認識の違いが「格差」と相関していると見ます。
問題は経済的には中間層・中流階級の復活も、大衆社会論で言えば中間集団の復活も無かった、という点に尽きます。
別にこの論点は宮台氏オリジナルのものではなく、メディア論をかじった人間の言う、「日本から中間集団が消えつつある」という問題意識で語られるテーマそのものなんですね。
例えば8/12付け朝日新聞朝刊オピニオン面の「(山腰修三のメディア私評)安倍元首相銃撃 民主主義という参照点から掘り下げて」というコラムでも同様の議論が出てくる。
一方で一人当たりGDPや、平均所得、購買力平価に関しては「安いニッポン」という構造が定着するきっかけは、1990年代にあります。
1995年に日本経営者団体連盟(日経連)が『新時代の「日本的経営」-挑戦すべき方向とその具体策』という報告書を公表しますが、従来のモノの価格競争と品質で勝負という方向性にしがみつくべし、という財界の意思が固まったものです。
激しい競争で従来の企業が潰れていくようなことを避けて、「同じ品質なら、日本製品が安いよ」という土俵で勝ちに行く、ということです。
この戦略が功を奏したのが2000年以降の自動車産業であったわけですが、一方でエレクトロニクス業界は、液晶パネル市場での事実上の敗北に象徴されるように半導体分野の不振に陥ります。
半導体産業の凋落については、当事者による良記事があります。
過剰技術・過剰品質が自滅の原因だという。これはフォーディズム体制の裏返しとも言えます。
フォーディズムをざっくり言ってしまえば、個人向け製品を作っている工場の従業員には、自社製品を買えるだけの給料を出す、ということです。
今はどうなんでしょう?
自動車の生産ラインも非正規雇用が増え、自分自身の収入でマイカーを購入・維持できる人はどのくらいいるのでしょうか?
このような例から分かる通り、アベノミクスで失業率が下がっても、従前とは経済構造・社会構造が違います。
バブル経済崩壊後、将来不安から投資を絞った結果、大企業であるほど内部留保が詰みあがっていった。第二次安倍政権時代に、この内部留保を使って非正規雇用を中心とした所得雇用改善ができたが、これは安倍さんがお願いしたからです。
これが安倍政権のおかげで少しだけ雇用と所得が改善したからくりであり、結果として「若い連中は現状の仕組みにしがみついている」ように見える。
「安倍政権のおかげで生活が良くなった」という実感を持つことは、私も肯定しますが、これは2021年ごろから言われ始めた「K字回復」と相似で、やはりどこかにシワ寄せがある。
実際のところは「若い連中は現状の仕組みにしがみついている」わけではないのはご承知の通り。むしろ現状が「変わってほしくない」のです。
個人的には1997年のアジア通貨危機が分水嶺だと思っていますが、そんなに伸びしろの無い経済情勢が続き、社会がゼロサムゲームに見えている時代が続いていること自体がアベノミクスの背後にあります。
これは企業が将来不安から投資を絞ったのと同じ「不安からの保身化」という現象とも言えます。今、自分が生きてきているやり方を放棄したとき、あるいは放棄せざるを得ないようなプラットフォームの変更があったときに、自分には何をしていいのかわからない、何をするべきなのか想像もつかないという心理です。
企業も個人も不安を感じるがゆえに、現状を変えないための政策、もっと言ってしまえば既得権益を延命させるという、アベノミクスの裏の顔を警戒すべきでした。
そういうものを見る力も考える余裕もない人、1997年以前という昔を知らない人や、非正規雇用の人から見れば安倍政権のおかげで少しだけ雇用と所得が改善されたというだけで、結果として既得権益にへばりつくように見えるわけです。
それって経済的には失業率が下がっても、ボトム層が増えただけでしょ、っていう。それこそが他人を馬鹿にした言い草だし、小泉内閣時代に言われたB層の話にも通じます。
今から思えばアベノミクスは、リーマンショックと民主党政権が壊しかけた何かを、何とか補修して、それなりに機能するようにした功績はあると思うし、かく言う自分も、この時期に得をした人間ですので。
そうは言っても、2020年代には現体制は破綻するだろうという予感はします。これは自分だけの見方ではなく、です。
個人的には異論がありますが、山口揚平氏の見方を例として挙げておきます。
希望は戦争~グレートリセット論2.0
更に違った角度で考えるとなると、赤木智弘氏の『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』を思い出します。
また、戦争が格差を是正するのは、戦費を捻出するために富裕層への課税を重くするから、という歴史の研究もあります。("戦争 累進課税"でググると色々と出てきます)
ちょうど言わんとしていることを丸々書かれてしまったブログ記事を見つけてしまいました。
「持てる者」と「持たざる者」の間の埋めがたい距離感、これがコメント前半部の要点だろうと拝察いたします。
尤も、宮台氏は大学院生だった1980年代に学生企業ライズコーポレーション設立に参画し、当初はドキュメンタリーの仕事が中心にしていたものの、後にマーケットリサーチの仕事が中心となる会社です。
企業からのスポンサーシップを得て統計調査やグループインタビューなどを行ない、分析・研究の結果をスポンサーに提供するというビジネスをしながら、一方でデータの学術的な利用権を留保する形でスポンサーと契約を結んでいたそうです。
そこのところの詳細と、ライズコーポレーション時代に集めたデータをまとめた本が「サブカルチャー神話解体」です。
社会学者の肩書を使って発言の場所を確保しながら、「クソ」等のキツイ言葉を使って感情のフックに訴えるというスタイル。これも当人の過去の著書や発言をフォローしていないと難しい。
なにせ、東大卒の父親から「革命家になるなら東大だ」と言われて東大に進学し、「テレビを通じて革命する」と言っていた人物。
アカデミアの外に対して挑発的に投げかけるスタイルにマジレスすることは、対宮台の観点では"負け"ですね。
さて、「分断」の問題に立ち戻れば、知識人~大衆の図式が崩れた結果、新たな分断線が生まれたと見ます。
専門家というよりは事情通的な人間がアカデミアを占領してしまっているのは、学問の細分化に加え、ある種の先鋭化が起きてしまっていて、全体性が見えなくなってしまっている。
これが専門家があてにならないとみなされる原因であります。
以前も、『マスク1枚つけさせるのだって各国苦労している中「多くが従わない合理的な決定」より「90%が従ってくれるでたらめな決定」の方が有意』とコメントされていましたが、「90%が従ってくれる」から有意というトートロジーに陥っていないか、そして要請と自粛で何とか回るというのも、結局は各自のエゴの合成が結果オーライだっただけではないか、そういう意地悪な見方もできてしまう。
上の例を続けると、そもそも論としてマスク着用の意義は「他人に感染させない」ことであるわけですが、大多数の人間は「自分を守るため」と思っているはずです。これが連帯感情無き人間の"各自のエゴ"の例なんですが、こんな"不都合な真実"は誰も耳に入れたくはないでしょう。
そして「言わんとしていることを丸々書かれてしまったブログ記事」は、日本は古代ギリシアの哲学者プラトンが言うところの「寡頭制」であると指摘します。財産を基に評価される国制であり、持てる者の為の国政が「寡頭制」です。
リベラルも、白饅頭氏からすれば、そんな「寡頭制」の一部に見えているのでしょう。同じ議論は「リベラルは階層だ」という形でアメリカでも出ています。
だから"壊し屋"ドナルド・トランプなる人物が大統領になるという事態も起きたわけです。
目下、アメリカのトランプ支持者は、ロシアのプーチン大統領とウクライナ侵攻を支持する傾向があると聞きますが、これも"壊し屋"への期待でしょう。
いわば、グレートリセット論が復活しているのです。これが加速主義や新反動主義とセットになっているわけです。
ですから安倍政権が現体制の延命を目的としている、もしくは延命を目的としているかの如く振舞っていた点は、グレートリセットの真逆ですし、2010年代を加速主義者として己をアピールしていた宮台真司氏としても、歯がゆかったと思います。
さて、「言わんとしていることを丸々書かれてしまったブログ記事」は
と締めくくります。
これは寡頭制の問題に限りませんし、かつて小室直樹氏が指摘した
という問題意識とも近接しているのではないでしょうか。
なぜなら小室直樹氏(および丸山真男氏)によれば、「民主制の健全な作動」は「自立した個人」を前提とし、更に「自立した個人」は「自立した共同体」を前提とするが、現在起きていることは「自立した共同体」がスポイルされた結果、「自立した個人」がスポイルされ、「自立した個人」がスポイルされた結果、「民主制の健全な作動」がスポイルされる、というサイクルです。
これはグローバル化(資本移動自由化)を背景とした中間層分解と共同体空洞化が進んだ結果、不安化・鬱屈化した市民がポピュリズムに駆られやすくなったというキャス・サンスティーンの指摘と全く同じ構造です。
言い換えれば、(国家や大企業といったシステムに依存する)「依存的な共同体」が「依存的な個人」をもたらし、「依存的個人」が「民主制の不健全な作動」をもたらすということ。
だとしたらシステムへの依存をやめるのか、システムをぶっ壊すのかといったことを考える人が出てくるわけです。
そして我々は心すべきです。システムの作動がシステムの前提条件を壊すことを。
brothert354氏への問い
貴殿は現体制維持を望まれますか、それとも早いうちに崩壊してほしいと考えますか?
上の1.の答えにかかわらず現在の情勢を見て、貴殿が生きているうちに現体制の崩壊を見る可能性があると考えますか?