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過剰包摂と中間層崩壊の側面#7:"貧ぼっちゃま"化する女とリベラル・フェミの攻撃性の根源

日本人であれば大多数が中間層・中流階級として包摂されてきたが、バブル崩壊で経済的余力が失われていく過程で、"叩き出し"のゲームが始まった。そういう状況下で転落という形で"叩き出される"恐怖からくる埋め合わせの行動と、一方で積極的に"叩き出そう"とする動きの両方があるのではないか。

今回は、本人の意思とは関係なく転落してしまうということと、その背後にある2つの攻撃性を考えてみたい。

"びんぼっちゃま"化する中間層の一部

自分は漫画家の小林よしのりと言えば「おぼっちゃまくん」から入った世代なのだが、「おぼっちゃまくん」には「貧ぼっちゃま(貧保耐三)」というキャラクターが登場する。アニメ版制作スタジオのキャラクター紹介を見てみる。

元・上流家庭、今は没落して超ビンボー人。プライドは高いが地位は低い。前だけスーツで後ろは全裸というインパクト大な服を着て、5人の幼い弟妹と暮らしている。口ぐせは「落ちぶれても元上流家庭」「落ちぶれてすまん」。

この説明、今まさに中流から転落しかかっている中流マインドを持つ人の精神構造を言い当てていると思えないだろうか。これが今回のnoteのテーマである。

今まで"中流"の生活と言われていたものが、実は贅沢なものであって、それを当たり前と思って育ってきた世代が、現実とのギャップに苦しんでいる。

そうなってくると取りうる選択肢は2つ。(1)現実を受け入れる形で諦めて下方移動するか、(2)中流であると見栄を張って結果的に転落するか、である。現実には(2)の選択肢を取ろうとして苦しむ人間があとをたたない印象がある。いわゆる"高望み"現象である。

目先のことしか考えない人間の末路は転落

第6回の記事の最後の節で引用した言葉を振り返ろう。

ひかりん氏のツイート曰く。

価値判断の基準が自分の中になく、自分の人生を生きることができない人は何をやっても不幸になる

ファイナンシャル・プランナー氏曰く。

中村:私は別に「専業主婦になるな」と言っているわけではありません。ただ、なるなら、“現実”をきちんと理解した上で選択してほしいのです。“現実”を知らないまま、「仕事がしんどくて逃げ出したいから」「見てると、なんだか楽しそうだから」という漠然とした理由で、その道に進んで、あとから「こんなはずじゃなかった」と後悔するのだけは、絶対に避けてほしい。
今は世の中の変化のスピードが速いですから、2、3年でも労働市場から離れてしまうと、たちまち自分がかつて働いていた世界から取り残されてしまいます。復職しようにもできないし、以前の友人や同僚とも話が合わなくなって孤独に……。
仕事に未練がないならいいですが、みなさん、本当にそこまでの覚悟はありますか?

価値判断の基準が自分の中にない人間が多いという問題は、自尊心の無い人間が多いということでもある。その背景に"親の感情的な劣化"があり、更に原因を探っていくと夫婦関係に起因したコミュニケーションの問題がある、と家庭の問題へと繋がっていくのだが、これは機会を改めたい。

前回指摘したように、結婚が世間体と経済的理由でされるものになってしまっている。それに加えて寿退職を言い訳として使う女性も出てきている。

 結婚後も働き続ける女性が多くなった今でも、「結婚するから」と言って退職を願い出ても「そんなの辞める理由にならない」と言われることは、あまり考えられないでしょう。
 実は結婚する予定がなく、転職活動をしていて他に内定が出ていたり、今の会社でキャリア形成がしにくいから辞める場合でも、職場環境に不満があって退職するようには受け取られないため、円満に辞めることができるのです。
 家族の介護を理由に退職するケースもありますが、結婚は慶事なので、余計な心配をかけず、快く送り出してくれるでしょう。

これこそ合理的適応戦略の結果だろう。記事にもあるが「結婚するから仕事を辞める」が改めて辞める理由として正当性がある社会通念がいまだに残っている。自分に自信がないから言い訳として利用できるものを利用しているように思える。

またコロナ禍からくる不安に押しつぶされるケースもあるらしい。

更に現実は女を追い詰める。

しかし年収700万の独身男性を捕まえられる確率は低いという、もう一つの現実は目に入らないようだ。

不安解消まで他力本願で良いのか?そういう人には、以下の記事で取り上げられている事例を読んで考えていただきたいものである。

上の記事に登場するエリカさんは、"他人にペコペコせず自信を持って生きる"道を選択した、「結婚するから仕事を辞める」という姿勢とは真逆の姿勢の持ち主だろう。

確かに労働市場では女性は弱者なのかもしれないし、現実の問題として賃金格差やマミートラック、他の問題は相変わらず山積している。

ところが弱者同士で連帯できない!現実には女-女格差が存在するからだ。

そして数少ない"勝ち組"のポジションを巡る座席争いは激化していく。

不安があるから弱者になる

一方で現代的な不安の問題もある。わかりやすい例なので"田舎者"を考えてみよう。

信田: そして、自分が不安だと言うことに気づいていません。あるいは、不安な自分を認められないんです。不安と言えないから、繋がれません。私たちがグループカウンセリングをやっているのは、同じように不安な人がいることがわかると、不安は減少するからです。言葉の外で繋がる、というのは、非常に限られた場所ではありますが、逆説的に重要視されつつあることも事実ですね。
宮台: 僕は関西で育ちましたが、社会学者も文学者もよく言うのは、東京とそれ以外の地方の違いは、東京は田舎者集まりなのに、足元を見られたくなくてみんなが自分を粉飾決算するということです。つまり不安に陥っていて、自分が基準をクリアしているということで一生懸命、安心しようとするんです。寺山修司も言っているように、東京にいるやつはほとんどみんな田舎者なんだから、それをただ認めれば不安ゆえの言葉の粉飾決算からは逃れられます。しかし、その状況はもっとひどくなっています。
信田: その意味では、標準語というのは、不安の言語ですね。

「足元を見られたくない」という田舎者の心理、これが弱者同士で連帯できない理由である。

抽象的に言ってしまえばこうだ。

一見すると誰もが同じような生活をしているようで、実は経済格差や社会的地位の違いが存在している。ところが、誰もが弱者であるところを見せないよう振る舞う(ある種の見栄っ張り)がゆえに、弱者同士での連帯が不可能だ。

そう、ここで「貧ぼっちゃま」のメタファーが使える。「貧ぼっちゃま」同士は、自分を弱者とは見せたくないので、連帯ができないのだ。

社会的排除が問題を見えなくする

そしてもう一つの転落問題の形が社会的排除だ。これは白饅頭日誌では定番のテーマである。

この排除の閾値は大概はこんな感じだ。

・ルックス
・社会的ステータス
・かわいそうランキング下位

共通して言えるのは、本人の"市場価値"であるとか、他人から見て関わることで利益が得られる"利用価値"を査定して、価値が低いと判定したら排除、という構造だ。

それに関連して白饅頭氏が良く使うのが"道徳的優位性"であるが、ジョルジョ・アガンベンの言う「ホモ・サケル」概念の焼き直しだろう。

宮台真司氏による映画『カルテル・ランド』の評論記事、実はこのパートで言いたいことがそのまんま書かれているのだが、国際政治の文脈で事例を取り上げているところもあるので、国内問題目線に向けて多少の補足をしたい。

 まず、議論の前提になる話をします。1995年にイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが『ホモ・サケル』という本を出します。元々は美術批評家として、人が表現者たり得る資格について探索して来ました。そこから社会の内側と外側の区別に関心を寄せ、『ホモ・サケル』を著します。
 「ホモ・サケル」の直訳は「聖なる人間」で、、ホモサピエンスのホモ(人間)と、英語のsacred(聖なる)の語源に当たるラテン語の組合せ。彼によれば、ローマ帝国で「二重に排除された者」のことです。具体的には、犯罪者であることもできす(一重目)、生け贄であることもできない存在です(二重目)。
 抽象的には、もう一つ「排除からの排除」という二重性があります。社会の正統な排除メカニズムから排除されていること。社会成員なればこそ犯罪者や生贄として排除され得ますが、社会成員ではないからそれはなく、かといって、敵国・敵共同体に属するのでもない、そんな奇妙な存在。
 BS『世界のドキュメンタリー』「9.11から10年」シリーズ第1週「対アルカイダ 情報機関の10年」(BBC製作)や、英国人2人が国際テロリストだと誤認されてアフガニスタンからグアンタナモ収容所に送られて2年の地獄を体験した実話を元にしたM・ウィンターボトム監督『グアンタナモ・僕達が見た真実』(2006年)を見れば、ここの収容者がホモ・サケルである事実が分かります。

このポイントが頭に入っていると現代日本社会では"おっさん"がホモ・サケルであることが理解できる。

宮台氏による映画評論から引用を続けよう。リベラルを自称する連中が「差別はいけない」と口先では言いながら特定の対象を攻撃するのはなぜか?

 ローマ帝国は、帝国であるがゆえに、普遍的価値に基づく統治ではなく、服属した者が統治されるだけだから、「排除からの排除」が可視的でも良かった。けれど、近代社会は人権という普遍的価値に基づく統治を旗印にするから、少なくとも民衆にソレが可視的であってはならない筈です。
 それが2001.9.11以降変わりました。米国によるグアンタナモ収容所の設営や巨大デマに基づくイラク攻撃などの無数の条約違反や国際法違反が、現在が近代国家がテロの主体として登場するという意味での「テロの時代」である事実を満天下に晒しました。本来なら正統性の危機です。
 でも必ずしもそうならない。なぜか。人々の体験様式が変わったからです。近代国家の行動原理自体は実は変わらない。大英帝国はガンディの非暴力的抵抗運動をテロだとして令状なき逮捕投獄をしたし、ノーベル平和賞のマンデラも2008年まで米国のテロリスト監視対象でした。
 でもアガンベンによれば、こうした営みはシュミットの言う「例外状態における主権者の意志」として<非通常化>されていました。それが2001年以降に米国かもたらした「テロの時代」=テロルの<通常化>で、ホモ・サケルが「常時」存在しなければならない事実が、可視化されたのです。
 一口で言えば、近代社会や、それが支える/それを支える近代国家が、如何なる正統性を欠いた事実性に過ぎないことが満天下に晒されました。人権思想みたいな普遍主義が、所詮「排除から排除」されたホモ・サケルの存在を構造的に前提にしたペテンであることが、明らかになりました。
 ちなみに超法規的という意味で「正統性legitimacy」がないだけでなく、「正当性rightness」もない。「天賦人権」どころか「生まれによる差別」だから、ホモ・サケルを温存して近代社会を維持する営みは正しくありません。でも、昔と違って昨今それが大問題にならない。なぜなのかです。
 理由は簡単で、仲間や家族を守りたいから。原初的社会(部族段階)以来ヒトは「仲間を殺すな」「仲間のために人を殺せ」を2大原則として来たし、並行して「仲間のために人を殺す」べく命を賭す<過剰>が、ヒトが本来有する<内発性>として擁護されてきました。ここに<矛盾>が潜みます。
 紀元前4世紀のアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』のフィリア(友愛)奨励を、『政治学』のト・アリストン(ポリス貢献という最高善)で「上書き」しました。なぜか。フィリアだけでは、戦争の時、命懸けで「仲間のために殺す」どころか、「仲間と一緒に逃げる」のが合理的だからです。
 ここに大規模定住社会の<矛盾>が露呈します。一緒に逃げる仲間Aと、その為に人を殺しもする仲間Bは、範囲が違い、仲間Bが大きいのです。前者は仲間と家族。後者はさして親しくない者達だからです。しかし後者からなるポリスを守らないと、仲間と家族を守れなくもなるのです。

「人権思想みたいな普遍主義が、所詮「排除から排除」されたホモ・サケルの存在を構造的に前提にしたペテンである」というのが重要なポイント。予てから言ってきた通り「リベラルとは限られた範囲での平等」でしかなく、その「限られた範囲」の選択に恣意性が潜む。

その意味では、ネット上で吹き上がるリベラルやフェミニストと称される連中の考える「限られた範囲」の狭さは問題視されて然るべきである。

話が大きくなってきたが、上の議論をまとめるとこうなる。

1つ目は自らを中流と思っていながら、己が考える中流のレベルが現実・実情よりも高く、経済的な理由で中流が維持できなくなれば「中流から転落」する。これは「貧ぼっちゃま」の一つの特徴だ。

2つ目は、中流という仲間意識のために、ちょっとでも違うとか、実はお金に困っていそうな人間を排除しようとする。

3つ目は、他人の排除によって保たれる人間関係のホメオスタシスが、本人のアイデンティティの安定、すなわち感情的な安全に直結していることだ。

この3つ目のポイントが、「リベラルとは限られた範囲での平等」となる原因であり、昨今のリベラルやフェミニストが攻撃的な理由もこれである。

そして日本に限らず長期不況とネオリベ改革の結果、経済生活の安定が失われた結果、下向きの厳しい視線が生まれるようになる。例えば正社員が契約社員や派遣社員、パート、アルバイトに厳しい目線を向けるのがこれだ。

"社会的排除"・"排除型社会"の完成

この構造はジョック・ヤングが指摘した"社会的排除"/"排除型社会"そのものだ。

そして我々は、自ら排除した"はみ出し者"の復讐に怯えながら生きることになる。

「自由で平和で快適で個人主義的な社会」の「必要経費」としての、ロシアン・ルーレット。果たして我々はそのような「必要経費」をいつまで払い続けられるのだろうか?

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