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過剰包摂と中間層崩壊の側面#1:「見たいものしか見たくない」婚活男女と親ガチャの影響

日本人であれば大多数が中間層・中流階級として包摂されてきたが、バブル崩壊で経済的余力が失われていく過程で、"叩き出し"のゲームが始まった。そういう状況下で転落という形で"叩き出される"恐怖からくる埋め合わせの行動と、一方で積極的に"叩き出そう"とする動きの両方があるのではないか。

今回は家庭編である。

「見たいものしか見たくない」姿勢が結婚を遠ざける

ある意味お約束な御田寺圭氏のコラムから始めよう。

そしてなにより、これまで自明の真実として美談的に語られてきた「能力=努力」という根拠薄弱な神話によって、特権的なエリート階層の人びとは代々にわたって肥え太り、一方で多くの名もなき人びとの苦境や困窮はひたすらに無効化(自己責任化)されてきた。努力や責任といった言葉を、社会的再分配を拒否するための方便としてきたことに対する壮大な「バックラッシュ」が、「親ガチャ」というワードの流行の背景にはある。
このワードや、これが流行してしまったことそれ自体を好ましく思うか否かは別として、このワードが示唆する「白け」の雰囲気と、さらにその深淵にある「抗議」の声には、私たちは少なくとも耳を傾ける必要はあるのだろう。

バブル崩壊とともに一億層中流社会の崩壊が始まり、これまで中流として抱え込まれていた層が中流から転落したり、はじき出されたりしてきた。

そして"失われた30年"が過ぎた。その結果が格差社会であったわけだが、それが性愛や結婚のあり方を変えてしまった点は過去に指摘したとおりだ。


娘一人を大学まで卒業させるには"父親"が1人では足りないということなのだ。そう、"親子関係"のタコ足化だ。
女からすれば「お金」をもらう相手、「有能な精子」をもらう相手、「親密になる」相手、情緒的に満たしてくれる相手、等々が分離していく。これは"夫"のタコ足化である。
これは男の不倫も同じだ。生活的なケアを受ける妻、承認を与えてくれる彼女…そうやって男も人間関係をタコ足化させていく。

子供一人を大人にするのに、"父親も母親も一人ずつでは足りない"という社会になってしまった。

もとから差別的待遇に甘んじることを強制されてきた本邦の女性労働者がいて、さらに男も稼げなくなるという形で"後ろ向きの男女平等"(by水無田気流)が実現した今、経済的な没落に敏感になった女性は、結婚相手に収入も含めたスペックや生活水準の保証を求めるようになってしまった。

【⽩河】 逆にますます昭和型にしがみついたのです。「ごく⼀部の稼げる男を、少しでも早く獲得せねば」と競争が激化し、婚活を、「より広い範囲からよりよい相⼿を選択すること」と誤解する⼈も出現しました。

そういう中間層・中産階級からの没落に怯える女が上昇婚志向(高望み)をしているが、これはネトウヨ現象と根本は同じだと私は指摘した。

現実の問題、結婚相手は選べるようで"選べない"。例えばこんな具合だ。

できれば、先にこういう"現実"を踏まえた上で、昭和の男性稼ぎ型結婚というモデルを見限って、結婚のリデザイン(再設計)をせよ、というのが上で引用した白河桃子女史の指摘だったのである。

ところが母親が専業主婦で、父親が甘やかしていると、娘がボーッと大人になってしまうので、現実を見ることもなく結婚のリデザインもせずに、昭和型にしがみつくことで、人生のコース(ライフコース)が昭和型から外れるという皮肉な事態が起きてしまう。

男性からすれば周囲のお膳立てという名の環境条件が消えたために、色々と面倒なことになっているのが現実だろう。

不幸なことに、こういう現実を見ずに済ませる形でボーッと大人になる人は女性が多いように見受けられる。だから"見たいものしか見ない"姿勢は問題なのだ。

そして、これは親ガチャの結果でもある。親が現実を見せたり教えることもなく甘やかしてしまうという最悪の結果をもたらす家庭で育ってしまうことが不幸なことに直結する社会の側面が、ここでも見えてくる。

"親ガチャ"の最大の問題は、クズ親による抱え込み

以前も指摘したように、子どもは親、特に母親の所有物と見做す"文化"が本邦に根強く残っている。

また、家族にとっての子どもの経済的な意義が、消費財(贅沢品)となっている以上、子どもの出来不出来は家庭の、ひいては母親の評価に直結する。

これはある種のパターナリズムであり、個人的には"母権パターナリズム"と名付けたいところだ。

従って、子どもを"大切"に育てるインセンティブが強く、子供にとって有害であったり不快なものを先回りして排除するよう動機付けられる。これが過剰な"環境浄化"欲求に直結している。

子どもが傷付けられたと感じたら、それは親である自分への攻撃とみなす感性にもつながっていく。

それがもたらす副作用の一例が、性的暴行被害が発覚しにくくなっている状況だ。

その背景には性教育の退行がある。しかし、これは副次的な現象でしかない。

宮台 小中学校での性教育の悪影響を指摘する声もある。20年前の援交全盛期以降、性教育の場で性感染症や妊娠のリスクを強調し、「性愛に関わると自分をコントロールできなくなって受験や就職活動を棒に振る」と脅してきたことが、学生たちからの聴き取りで分かっています。
 こうして、性愛に関わるのは踏み外しだとの意識が拡がる一方、それを背景に、性愛にハマると教室でのスクールカーストを急降下するようにもなる。その延長線上で、2010年ころから大学生女子の間で、性愛にコミットすると「ビッチ」と陰口を叩かれるようになります。

それは親が子どもを抱え込んでしまうからだ。これは"子どもは親の所有物"という状況の別の側面でもある。

とにかく危険な目に逢わせない、傷付けさせないどころか傷つくのすら許さない。これが宮台真司の指摘である。

そして所有という概念は支配と表裏一体である。それが家族の問題の背景として横たわっていることは以前にも指摘した。

母親と子どもは父親の所有物、子どもは母親の所有物、そういう連鎖がある。近年は男女平等が進んだこともあって、前者の"母親は父親の所有物"という状況は多少は緩和されてきたのかもしれないが、後者の"子どもは母親の所有物"という状況は残ってしまっている。

こういう背景もあるので、親、特に母親が子供の友人関係も含めた人間関係への介入はあるし、それもリスク管理の一環として人間関係の管理(支配)という要素が強まる。

「団地の子とは遊んではいけません」

こう言われた経験がある人もいるかもしれない。典型的な人間関係への介入のパターンである。

親からすれば子どもに見せたくないものを子どもが見てしまうリスクを回避するための介入なのだ。

こういう管理を続けると、子ども当人の周辺の人間関係は、

・同級生や同質(同年代、住環境が近しいなど)な子ども
・親や家族
・学校の先生

に限られることになる。そこには近所の大人や質的に違う人間の立ち入る余地はない。むしろ、親が排除している。

そう、いわゆる"斜めの人間関係"を築く体験の機会を親が奪っているのである。そしてホモソーシャルな人間関係か、所有と支配をベースにした上下関係の人間関係のスキルしか身に付かない。そして子どもには劣等感を植え付けてしまう。

まとめ

実社会に出れば職場にしろ街中にしろ"斜めの人間関係"が発生するし、どうしても関りとしても必要になってくるのだが、そういう人間関係のスキルが無いまま社会に放り出される。

これはダブルスタンダードなのではないか?以下の議論のように。

宮台 ダブルスタンダードです。性教育に関する議論が典型ですが、日本は諸外国に比べて幼い頃に試行錯誤をさせず、安心・安全・便利・快適の枠内で、道徳的な葛藤に出会うことがないように育てられます。なのに、突然「18歳からすべては自己責任」と宣告する。明らかに矛盾した要求です。これを当事者たち自身が整合させることは不可能です。

結局のところ、親が子供に対して所有と支配をベースにした上下関係で接するかどうかが、親ガチャの本質的な部分だろうと思えてくるのである。

そこから先の処方箋は、親が子どもを過剰に抱え込まないことだろう。

そう、家族といっても何もかもを包摂するというのは過剰なのだ。

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