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2022/1/7 白饅頭日誌:1月7日「それ以上いけない教皇」への長文コメント

※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。

女は己を人間未満と規定しながら社会にタダ乗りする

「子どもを産むことが人間ではない証拠」という空気すら漂う、昨今のフェミニズムですが、確かに上野千鶴子は「産む自由」を否定していました。

そして宇野常寛の言葉を借りれば

〈人間未満〉なのだから、「〈人間未満〉のままで幸せになるには専業主婦が一番楽じゃん」

働く女性が〈子どもを産む自由〉を得られる日は来るのか?――社会学者・水無田気流インタビュー
https://www.huffingtonpost.jp/planets/woman-baby_b_5314579.html

という、社会へのタダ乗りを肯定する人間観が広まっている。

そういう中で今回の白饅頭日誌のおかげで、去年末からちょこちょこ書いてきた拙稿の問題意識がクリアになってきた気がします。

神田沙也加の転落死で感じた「母親になりたくない女」というあり方。

生物学的に母親になっても人間としてクズなら母親の資格がないこと。

そして拙稿で何回か引用した、フランスの哲学者、ミッシェル・フーコーの「近代産業社会が個人を健全な市民として包摂する条件」は、「当該社会において認められる種類の生産労働に従事し得ること」か「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」のいずれかであるという指摘。

今回のローマ教皇のご発言は「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」を社会が評価しないどころか、個人的な苦痛に矮小化して考えられていることを暗に批判していると解釈できます。

女性の(東浩紀的な意味での)"動物化"

ついでに「今だけ、自分だけ」良ければいい思想としての「個人主義」も批判しておきます。

東浩紀曰く。

人間は所詮は「動物」であり、局所的な視野と欲求充足の原理に基づいて消費行動を繰り返すだけの愚かな存在にすぎないが、ネットワークで繋ぐことで全体としては知的で賢い存在に変わる。それが創発的秩序論者たちの夢である。それは真実かもしれない。たとえ真実でなくとも、中心的な規範を失い、ポストモダン化が進み、あまりに多様で複雑になってしまった現代社会では、もはやそのような動物的なモデルでしか新たな秩序形成は構想できないのかもしれない。しかし、そのモデルを受け入れることは、近代社会が築きあげてきた「市民」や「個人」の理念を放棄することを含意する。したがって、その選択に対してはもう少し慎重であってもいい。少なくとも、それが、ハックスリーが『すばらしい新世界』に込めた教訓のひとつだったはずである。

情報自由論第14回 不安のインフレスパイラル(後編) 著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年10月号、中央公論新社
http://www.hajou.org/infoliberalism/14.html

動物の合理性とはリスク回避の合理性である。

情報自由論第14回 不安のインフレスパイラル(後編) 著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年10月号、中央公論新社
http://www.hajou.org/infoliberalism/14.html

元旦の白饅頭日誌で指摘されていた、女性の責任回避的なコミュニケーションというのは、この動物的な特徴なのです。

 女性は往々にして、自分の「加害者性」や「責任者性」をうまく回避するようなコミュニケーションを好む。この点を絶対に忘れてはならない。女性のコミュニティは男性よりも同調圧や横並び意識が強く、「主体であること」「責任者であること「加害者であること」を自らに規定しまうこと(≒抜きんでた存在になること)によって生じるリスクがきわめて重大になる。
 日常のコミュニケーションの場面でも同じだ。直接的に言明したりするのではなく、それとなく挿入された含意や示唆によって相手の内発的な推測や理解を生じさせて、これによって自分が伝えたいことを(≒主体的責任を回避しながら)伝達する。いわゆる「匂わせ」といわれる技法が、女性間のコミュニケーションで発達してきたことは偶然ではない。
 自分からははっきりとは何も言わない。自分が本当に言っていることを相手に推測させてコミュニケーションする(このコミュニケーションが苦手な女性も一定数おり、そうした女性は往々にして女性のコミュニティから孤立しているか、あるいは苦手意識を持っている)。
 女性は基本的に、自分の伝えたいことをそのまま伝えず「相手にそれとなく察させる」ことによって伝えようとする。そうしないと「自分が言った」という言質や責任を取られるし、それが悪い意味に解釈されてしまった場合には、結果責任を引き受けなければならないからだ。言い換えれば、「私はそんなことは一言も言っていない。あなたが勝手にそう解釈しただけ」と《逃げ》を打てる余地をつねに残しながらコミュニケーションをする。
 ただし、それが悪いとか劣っているとか言っているわけではない。「筋を通して話をする」「責任を引き受けて発言する」「腹を割って話す」といった行為が上等であるとか誠実であるといった考え方は、あくまで男性中心主義的なコミュニケーションの倫理であり、女性がそれを共有していないだけだ。女性には女性の流儀がある。
 察してほしい(自分の責任を負いたくない)からこそ、さまざまな「表現技法」を磨き上げてきた女性に対して、男性は自分の責任をはっきりと引き受け「まっすぐ」であることがよしとされる。非モテ諸兄は「男性と女性は同じ言語を話しているが、しかしその言語は男女それぞれで独自の文化的発展を遂げてきた」ということをまずは理解しなければならない。
 なるべく字義どおりに理解し、そのとおりに実行して、裏をかいたりしないのは「男のコミュニケーション」の流儀である。字義どおりに伝えてしまっては自分の責任が発生してしまうからこそ、なるべく責任を回避できるよう相手の解釈コンテクストを巧みに誘導しながら自分の伝えたいことを伝えるのが「女のコミュニケーション」である。

暗黒メモ「なぜ非モテ諸兄はホイホイと『騙されて』しまうのか?」|白饅頭 @terrakei07
https://note.com/terrakei07/n/n0c541772b454

兎にも角にもリスク回避第一という"価値観"、その結果としての目先の損得にこだわる刹那的な行動原理(朝三暮四!)、これらの合わせ技としての"動物化"です。

尤も、女性は己が生物学的な意味で動物であることを意識させられる契機が生理的にある、ということも忘れてはいけません。

だからポストモダン社会では、女性の動物性が目立ってしまうわけです。

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