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いじめの種を言語化する〜自分の経験を壮絶に描かないために〜

オシエルズの矢島です。

僕は、太っていたことが原因で、小学校4年生ぐらいから「デブ」「ゴリラ」などとからかわれていました。これは自分の記憶からも確かです。

太っていたことをからかわれて「これはいじめだなぁ」とは思っていましたが、別に壮絶なものではなかったし、むしろ周囲とは良好な人間関係を築いていた人も多かったと思います。

普通に同窓会の幹事とかやってますし(笑)

これは僕の持論なんですが、いじめは小さなものだと、自分でも気づかないぐらいに紛れていて、それを言語化できないことへのストレスがあると思うんです。一見、仲良しに見えても「いじめの種」を抱えて過ごす子どもはたくさんいると思います。

ただ現在、「壮絶ないじめを経験していなければ、いじめを語ってはいけない」といった風潮が社会にはあるなと思っています。壮絶ないじめを受けた経験は確かにドラマがあります。読む人や聴く人に怒りを覚えさせ「絶対にいじめは良くない」という気持ちにさせます。

しかし、「壮絶ないじめ経験者のみに語られるいじめ」は、それ以外の小さな「いじめの種」を見過ごしてしまう危険があると思っています。

「いじめの種」はどこにでも存在します。仲が良くても「いじめの種」は芽を出します。僕が言いたいのは、社会が持ついじめの定義が「壮絶なもの」に上書きされることによって、それ以外のものがいじめと判断されなくなる、ということです。

僕自身も、周りに1人も味方がいないとか、先生からもいじめられていたとか、そんなレベルのものを僕は受けていません。そういった経験をした人からすれば「お前みたいなものはいじめとは呼ばない」と思う人もいるかもしれません。

ありがたいことに、「笑いでいじめをなくす」というコンセプトで仕事が増えてきていて、もちろん自分のバックボーンを話す機会も増えています。その話をすると、皆さん「辛い思いをしたんですね」と共感してくれます。

ただ、それを記事にするとか、何かを媒介して伝えるってなった時に「意図しないドラマ性」のようなものが発生しないだろうか、という不安を今抱えています。

今後、何かのインタビュー記事とかで、当時の同級生から「いや、お前そこまで壮絶じゃないだろ!」「むしろ仲のいい奴もいただろ!」と言われたりしないだろうか、と心配になる時があります。

もちろん、僕も他の同級生に「いじめ」と取られるような言動を取っていたと思います。今となっては追いかけることはできませんが。

ただ、僕自身が確かに感じていたのは「いじめの種」でした。そして、僕みたいな感覚を子どもの頃に持っていた人は、かなり多いんじゃないかと思います。ここまで言語化できたかは分かりませんが。

当時の同級生がどう思うか分かりませんが、やはり小学校のころ、僕が感じたあのからかいの言葉は「いじめ」だったと思います。しかし、それは壮絶ないじめ経験者からすれば「可愛いもの」だと思います。

僕の体験は、人の怒りや悲しみを大きく沸かせるものではありません。壮絶なものをいじめと定義するならば、僕が受けたことは「いじめの種の芽吹き」に過ぎないかもしれない。

しかし、本来「いじめの種が芽吹いた瞬間」は、共感されやすい感覚なのに、さまざまな要因で「共感されづらいもの」になっているも思います。それはおそらく、社会が持つ「いじめの定義」に上書きされてしまうからだと思います。

結論。

これから活躍の場を広げたいと思っている自分に対して、それを紹介してくれる媒体が、ドラマチックに描こうとされていないか、また、それを許そうとしている自分がいないか、それをしたら周囲がどう思うかなど、日々問い続けていきたいと思っています。

《追記》

何でこんなことを書きたくなったかというと、実際、自分の経験を劇的に語れたほうが、聴く人の食いつきもいいし、仕事に繋がりそうだなぁ…と、恐ろしい考えに至ることが度々あるからです。

そんな誘惑に負けて、無意識のうちに、自分の経験を大げさに語っていたこともあったような気がします。大げさなほうが、相手に伝わるメッセージも大きくなるような錯覚に騙されていたのでしょう。

「ありのままに自分の経験を伝えられるようにしなくてはいけない」「誰かに自分の思いを分かって欲しくて、自分以上のメッセージを伝えようとしない」

そういった虚飾を今後はしないように、という自戒を込めて書きました。

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