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個人主義と東アジアのはざまで

日本以外のアジアの国、とくに東南アジアに行くと思うことなのだけれど、そのへんに、何をしているのか不明な、簡単に言うとほとんど働いていない人たちがいる。なんだかんだ、日本は昼間からぶらぶらしていたり、なんの仕事をしているのかわからない人は少ないと思う。しかし、東南アジアに行くと、マジで何をしているのかわからない人がけっこういる。
 
でも、そういう人たちと接すると、親戚の中にすごく成功した人がいたりして、その人の力でなんとかなっている人たちだったりする。そういうのを見ると、ああなるほど、その人に食わしてもらっているんだな、とわかる。一人の突出したエリートがいて、周りの人たちがそれを支えている、という構図だ。ときには一族のみならず、故郷の田舎全体がその人の活躍に期待していたりする。あいつは出世した、エリートだ、故郷の誉れだ、と。こういうのは日本の田舎でも見られるものだとは思うけれど。
 
一方で、アメリカは徹底した「個人主義」の国だ。個人で成功することを国家として奨励している。生き方を見ていても、彼らは非常にドライだな、と思う。生活のレベルに合わせて住む家を変え、リタイアしてからは、思い出の詰まった家を売り払って、どこか暖かいところに移住して余生を過ごす。日本人は自分が苦楽をともにした「土地」を大事にするので、用が済んだらさっさと売っぱらって別のところに移動する、というような価値観に抵抗のある人が多い。アメリカ人は、そういうところはわりとさばさばしていて、むしろ家を売った現金を老後の資金にまわそうとする。

アメリカと東アジア型は、家族や生き方が対照的だ。片方は徹底した個人主義・合理主義。東アジア型は、一部のエリート(稼ぎ頭)に依存しつつも、一族全員でバックアップ・支援して、全体で繁栄すればそれでいい、という考え方。どちらも、それぞれの良さがあるし、欠点もある。しかし、それはそれで社会が機能している面もある。
 
日本は、その価値観の中間、「はざま」なのかな、と思うことがある。地理的にはまさに東アジアだから「東アジア型」の範疇なのだろうが、妙に個人主義的なところもあるし。都市部と地方でもまた事情は変わってくるだろう。まだ「こなれてない」というか、もともとは「東アジア型」なのだけれど、変に「個人主義」の概念を輸入したせいで、価値観がこじれてきてしまっているのかな、と。
 
前から思っているのだが、年金の受給がどうのこうのという問題があるけれど、はじめから年金など存在しなければ、老後は子どもに面倒をみてもらうのが当たり前の世界のままだ。であれば、結婚して家をもって、子どもを立派に育てるのが重要になるわけで、少子化というのは「個人主義」の概念を導入した弊害の一部なのかな、ともとれる。もちろん、そんなに単純なものでもないのだろうが……。シンプルに考えると、そういうことになる。

日本は、個人主義と東アジアのはざまで、どっちに転がろうか迷っているように見える。どちらがいい、という問題ではないのだけれど……。
 
個人主義と東アジア型、どちらの生き方がしっくりきますか?

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