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2018/11秋滞在→→→2019/03春の滞在にかけての雑感

2018年の夏と秋の京都での滞在を通して、『ウォーターフロント』という戯曲を書きました。(https://note.mu/yagyunichika/n/n7fc79488bbd4

夏の滞在については以下にまとめています。

秋の滞在に寄せて(柳生二千翔より)
夏は、その場所に滞在することを通して、浮ついた状態(観光気分)から脱すること/土地に身体を馴染ませる感覚を意識的に大事にしていました。外部の人間が、初めてその土地にやってきて触れる新鮮な体験、一面的なおもしろさを表すことで『消費』したくないということが頭にありました。

食べること、寝ること、歩くこと、話すこと、触れること、などなど。
そうした生活の中で生まれる当たり前の行為、所作などを丁寧に、そしてぼんやりと追ったり掴んでみることで、その土地から創作の力の源を頂く、自分の製作方法を改めて考えていく時間となりました。

出展:http://www.kac.or.jp/events/24601/

そうした夏の滞在をえて、秋の滞在の9日間に書き上げたのが『ウォーターフロント』でした。〆切に迫られて性急な面も目立ちますが、自分の今持っている技術や、世界との感覚の共振を行って成長できた、興味深い作品だと、自信を持って言えます。これは一つの成果だと思っています。

秋の滞在を終えて帰郷し、次に取り組んだのが2019年2月に公演を予定していた「うたたね姫 リミックス」という作品でした。この作品は2014年に初演した戯曲を、現代版にリクリエーションを行うという企画でした。

そのコンセプトは、公演の当日パンフレットに記しました。

今作は、2014年3月に発表した作品の再演です。初演の時は20歳だった私は、25歳になりました。
当時の戯曲を読み直して、その若々しい切実さに、今はもう全く共感ができないことに気がつきました。とても「痛々しい」です。歳を重ね、そのイタさは頭では理解できますが、感じることはできなくなりました。
しかしそれらを「たかがその程度のことで悩むな」というひと言で、暴力的に切り捨てたくないなと思っています。
例えば、学校という小さな世界での生きづらさや閉塞感は、私に見えなくなっただけで、いまも生活のどこかで存在するからです。
それら全てが、ただ「ある/あった」ことを描きつつ、世界への眼差しのレンジを広げて、今の東京を描きました。

/女の子には内緒「うたたね姫 リミックス」当日パンフレット 2019,02
→ 作品概要 
→ 感想Togetter

この作品で扱ったことは、自分が「共感」して認識している世界の外を描く、もしくは存在を忘れない、ということでした。
このテーマに至った面は多々ありますが、その前に書き上げた『ウォーターフロント』の存在が大きいと思っています。

(もちろん人によると思いますが、)作家自身が関心があったり共感したりする物/事を、作品の題材やテーマに据えることが多いと思います。
『ウォーターフロント』は滞在を通して蓄積された、柳生自身の知覚する、肌感覚と近い世界を描きながら、想像のリリカルさを全開にして表現していました。
しかし同時に、私が知覚できる世界の狭さに疑いがありました。私に見えないだけで、確かにあるものについて興味が湧いたというか、それがあると、態度で示さないと作品を作る誠意がないと考えました。(などといつも言う だれにということもなく)

それを一度考えなくてはならないなと、『うたたね姫 リミックス』では私が関心を持たない(しかし昔の自分にとっては切実だった)世界を多く描きました。
非常にカロリーを使う作業だったので(なにせ自分が興味のないものを扱う訳ですから)、しばらくはこのアプローチはしたくありませんが、ここで得た物作りの姿勢は大きいと感じています。

『ウォーターフロント』『うたたね姫 リミックス』の2つの対極の作り方をした作品を通して得たもので、作家としてもっと遠くに行けるよう精進したいと考えています。

 2019/03/22 昼

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