差別を見せなければ差別はなくなるのか

近頃、欧米を中心に黒人差別に対する抗議活動が活発化している。

この大きな運動を受けて、米国大手のWARNER MEDIAが有名映画「風と共に去りぬ」を配信停止にした。理由は、シーン中に黒人差別を彷彿とさせる描写があったからだという。
このようなことが、今後あらゆる分野(芸術、報道など)で起こるかもしれない。

今とにかく、差別を連想させるものを徹底的に排除する動きが欧米や日本などで活発になっている。

差別は勿論あってはならないことだ。

意図的に差別を煽るような記事や芸術作品は、日の目を見ないほうが良い。

では、根源的に差別はどのように生まれたのか考えてみると、僕は差別のない世界から差別というものが自然発生的にできたと考えている。他の生物種において差別という概念がないのだから、人間がどこかの過程で作り出したものと考えるのが自然だろう。

そもそも差別というものの定義さえ、非常に曖昧だ。しかも、時代や対象(人種、宗教など)によってそのハードルは変わる。

例えば、新型コロナ流行初期、東洋人差別がフランスやアメリカを中心に起こった。しかし、これが大きく取沙汰されることはなかった。もし、新型コロナがアフリカ発祥の病気であったら...と考えると、今よりよっぽど酷い状況が容易に想像できる。

少し話が脱線してしまった。

前述のとおり、もし差別の定義が曖昧かつ時間依存だとすれば、差別という言葉の表す意味を定期的に更新する必要がある。さもないと、私たちは気づかぬうちに差別をするかもしれないし、また犯罪者になる可能性すらある。

差別というものを理解するために必要なことは、今起きている差別や過去に起こった差別の事例に目を背けないことだと思う。

差別を減らすことは、差別的な発言や行動を見聞きすることにより実現される。ルールを知ってルールを守ることと何ら変わらない。

残念ながら、差別はなくならない。

この世には自分とは
肌の色の違う人がいる。
文化的背景の違う人がいる。
異なる教育を受けている人がいる。
違う職種の人がいる。

人それぞれにどうしても同じ境遇や感情を共有できないところがある。このような齟齬から生まれる軽蔑心が、差別というものを作っていく。
このどうしようもない人間社会の摂理を持ちながら、差別をしないためのルールを知り、何人(なんびと)も最大限尊重されるようにしなければならない。

過去の芸術作品の描写や記事が語るものは、過去に黙認された残酷なものだけではなく、今後より良いものを作り出すためのヒントが隠されていると信じている。

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