カート・ヴァネガットと今敏

 過去の作家たちは写真や映画など新たな複製技術が発明され急速に社会に普及するなか「本」という媒体がどこまで書き手のリアリティを読者に伝えることができるのかという重要なテーマに直面したであろう。

 ポストモダニズムの作家たちは言葉の信頼を揺さぶられるなか、リアリズムに次ぐ新たな表現としてメタフィクションという文学手法を用いた作品を発表する。こうした手法は20世紀以降、映画など幅広い分野で用いられ近現代の新たな芸術のジャンルとして注目されている。
 メタフィクションの文学作品としてはカート・ヴァネガットの『スローターハウス5』を挙げることができよう。主人公のビリー・ピルグリムは時間内浮遊現象によって過去・現在・未来を前後の脈絡なく行き来している。しかし、行き先を自らコントロールすることはできない。例えば、捕虜としてドイツのドレスデンに運ばれる列車の中でボロボロのコートにくるまり横たわっていたかと思えば、次行では戦後の病院のベットの上にいるといった具合である。そして作中に突如著者が登場する記述があり、読者はフィクションと現実の境界が曖昧になるような感覚に襲われる。
 本作はカート・ヴァネガットのドレスデン爆撃などの体験を交えた自伝的な作品ある。したがって、本作は著者が体験した戦争を追体験することとなる。彼が語る主観は読み手にとっては狂ったように感じるかもしれない。しかし、この物語が虚構ではなく本当に著者が見た現実だというのであればなんて恐ろしいのだろうか。本作はリアリズムでは到達できなかった書き手のリアルな現実をメタフィクションによって表現したのである。


 メタフィクションの手法を視覚的に表現した作品として、今敏監督の『千年女優』を挙げたい。本作は虚構と現実が入り混じるような演出を得意としていた監督の映画の中でも最もメタフィクション的な視覚演出が連続する作品である。登場人物である藤原千代子は芸能界から姿をけした女優。自分を取材するために訪れた映像制作会社の社長とカメラマンと話すうち、記憶が錯綜し自分が演じた役柄が混じり合い、波乱万丈な物語が展開する。物語の本筋の途中、突如現代の千代子の自宅から忍者や侍が登場する戦国時代の城にショットが切り替わり、姫を演じた千代子と姫を守る家来として社長とカメラマンが登場人物として現れて現実と劇中劇が絡まるシーンが描かれる。この演出手法を考えるにあたって監督は『スローターハウス5』を「歪んでいながらも当人にとっては正当な時空間という特殊な意味で思い出し参考にした」と著書で語っている。
 両作品は制作の動機は異なるものであるが、物語の語り手に対して外部から解説が入ったり、作者が登場して読み手に語りかける仕掛けによって「フィクション」でありながら、あるかもしれない「現実」を描くことに成功した稀有な作品であるといえよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?