見出し画像

私は敗北者だと納得した

 「勝ち負けは重要ではない」と言っている人は、おそらくすでに負けている

 という名言を、利用しているジャーナリングアプリで見かけます。私はそのたびに不快になりました。

 だって、私はその勝負が嫌いなのです。名言を見るたびに、おまえは敗者だと言われているような気分になるのです。

 ただの名言ごとき気にしなければいい、と思うかもしれません。私は思いました。

 でも、気にしなくたって、不快感がなくなるわけではないんですよね。

 2月、年末年始からの体調不良が改善して、久しぶりにYouTube大学を聞きました。

 「愛と狂気の500万人突破LIVE 」です。そろそろひと月経ちますが、まだ聴き終わってません。

 その中で、彼が口にした「世の中は競争だ」という言葉に共感します。

 それは私が勝負事を嫌っているなどとは関係ありません。

 ただ生きているだけで、勝手に他者と比較され、評価され、望むと望まざると強制的に勝負の土俵へ立たされます。

 常に優劣を競わされる世界で、私は上を目指し続けるということができませんでした。

 だからこそ、「競争じゃない」と言う人は敗者なんだ、と言われることにモヤモヤしていました。

 だって、勝利と幸せは比例していません。たとえば、お金はとても便利ですが、ときに人を不幸にもします。

 むしろ、私は幸せのためなら劣っていることを利用しようとすら考えたこともありました。

 もちろん負けたから競争を否定するわけではありません。

 たしかに、勝っているときというのは楽しいです。負けなんて考える余裕もありません。

 逆に負けたときは、自分を正当化する逃げ道を探したくなります。

 でも、ふっと我に返ったとき、勝敗に一喜一憂する自分の中身の無さに絶望感がありました。

 その瞬間、どんなに調子のいいときでも、世界が色褪せるように心が冷めていくんです。

 いくら勝っても私は空しくなってしまうことを知ったから、強制参加の勝負へ嫌気がさしてしまったんですよね。

 だから勝ち負けは関係ない、と競争から距離を置くようになりました。それを、一方的に敗者だなんて貶められるのが不快だったんです。

 正直なところ、負ける覚悟もないのに競争なんて論外だと、名言に同意する部分もないわけではありません。

 私が勝負事で重要だと考えているのは、勝率がいくらかではなく、失敗したときどこまで往生際悪く勝つためにしぶとくなれるか、です。

 結果が理想に届かなかったとしても、人より劣っていたとしても、負けではなく失敗しただけだからです。

 私の大好きな名言、安西先生の「あきらめたら、そこで試合終了だよ」は、まさに同調の嵐ですよね。

 諦めることは負けること。

 勝つためなら何をしても許される、とは思いません。

 でも、正道だけが勝負ではないし、楽な道を探したり寄り道するも良し、みっともなく泥をすすったって良いとも考えています。

 いくら失敗したって、ただ、諦めることさえしなければ一生負けることはないのです。

 しかし、動画を聞きながら気づきました。私が我に返るのはいつも、自身の能力の限度を察したときだった、と。

 自分に対する諦観に、絶望を感じていたようです。

 結局のところ、私は他者と競争すると、その内容いかんに関わらず自分が見えなくなって自身に負けてしまうのです。

 その瞬間、たしかに私は敗者だと腑に落ちました。

 というのも、子どものころから私は同じ勝負であっても、他者より自分に勝つのが好きなのです。

 体育の時間、誰かより早く走れたことよりも、自分の記録を更新したことに達成感がありました。

 図画のコンクールで賞をもらったより、新しい技法を身につけたことが嬉しかったです。

 仕事でも、誰かと比べて優秀だねと言われるより、うまくできたねと褒められたときのほうが心満たされました。

 競争の世の中だから、私は誰かと勝負させられていただけなのかもしれません。

 でも、させられる勝負より、勝ちたい気持ちのほうが大事でした。

 当然ですよね。どうでもいいことで勝った喜びより、勝ちたいものに負けた屈辱のほうが大きいです。

 今まで、諦めることが負けることなのだと思っていました。

 たしかに、それもひとつの敗北です。

 一方で、勝ちたいものを知らないことも「負ける」ということだったのか、と気づいた新年でした。

 新年、というには随分と遅いですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?