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たりないわたし

遅ればせながらドラマ「だが、情熱はある」を完走した。

山里と若林の「自意識が過剰」という共通点が2人ほどではないが自分にも当てはまるようで共感する部分もあり、一方で努力が報われないことが怖いわたしは2人をみてなんでそんなに頑張れるんだろうと思ったり。

「人が本当に悔しかったり惨めだったりする話は面白いんだよ。」というのは劇中(というか実際に)、若林が放送作家の藤井からかけられた言葉だが、これは本当なのだろうか。

わたしは大学生のころ、友人に「自虐ネタ多いよね。なんでそんなに自分をさげるの?もっと楽しい話しようよ。」と本気で心配されたことがある。

衝撃だった。わたしが愉快な思い出話として話していた、幼稚園の頃いつも通り登園すると突然クラスの女子全員がモー娘。にどハマりしLOVEマシーンを踊っていたので必死に知ったかぶりをして踊っていたら近くにいた子に「なんか変」って言われて傷付いた話は彼女にとってはまったく愉快な話ではなかったらしい。

わたしの話術や内容のしょぼさに言及されてしまうとここで話は終わってしまうのだが、高校までのコミュニティであれば小笑いくらいは取れていたので(愛想笑いの可能性もあるが)、その点については今回は言及しないでおいてほしい。

『人が本当に悔しかったり惨めだったりする話』を面白がることができる人というのは、その悔しい経験や惨めな経験に共感できる人なんだと思う。根暗で気弱で流行にもさほど敏感でなかったわたしが、気の強い、所謂カースト上位女子にズバッと核心をつかれヒヤッとした話は、根暗でもなく流行にも敏感な大学の友人の共感は得られず結果的にわざわざ話すまでもない『惨めなかっこわるい話』になってしまったのかもしれない。
だが、わたしはその『かっこわるい話』を話してくれる人が好きだし、笑ってくれる人が好きだ。なんというか、人間臭さを感じられて嬉しい。

笑いというものは偉大で、自分の心にモヤァとあった嫌なことを一瞬で溶かしてくれる作用がある。
小学生のころ「ミルモでポン!」というアニメで一人称が「あたい」のキャラを観た次の日に真似して一人称を「あたい」にしたが、同級生の男の子に指摘された瞬間一気に恥ずかしくなってきて半日で辞めたエピソードはわたしにとっては死ぬほど恥ずかしい思い出だったが、飲み会でネタにしてからは思い出したときのダメージがかなり少なくなったことがそれを実証してくれている。

と、ここまで書いていたところでたまたまちょうど読んでいた本の中のなかに「まさに!」という文章を見つけた。

たとえ欠点や弱い部分でも共鳴し合う部分があれば有効なコミュニケーションツールになる。完璧な人間などどこにもいない。誰にでも必ずしも弱い部分はある。人間だけに与えられたこのツールを、私たちはもっと臆さず使っていいと思う。

星野源「そして生活はつづく」

惨めな気持ちや悔しい気持ちといったマイナスにしか感じられなかったことが、人間関係を円滑にしてくれたり、誰かの笑いや救いになるなんてこの世も捨てたもんじゃないなと思う。このnoteを読んで少しでも、わたしのエピソードでクスッとなってくれていたら嬉しいな。
以上、ほとんどドラマの感想じゃなかったけど、素敵なドラマだったなという話でした。

P.S. ちなみにわたしを心配してくれた大学の友人とはタイプが違うことをネタにしながら今も仲良くしているのでご安心を。

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