『歌いたい』‐きたりえの視点(10)

10.撮影後‐阿弥との会話‐亜樹との会話

 歌が終わる。静寂に包まれる。

 メンバーたちは皆、宙を仰いだまま呆然と歌の残響を感じていた。やがて、その静寂を打ち破るように力のこもった拍手が鳴り響いた。監督の拍手だ。それに続いて各スタッフたちの拍手も舞台上のメンバーたちを称賛した。

 その温かい拍手の音を聞き、メンバーたちは安堵の表情を浮かべ、互いに喜びを分かち合った。手に手をとり、互いをたたえ、笑い合った。

 里英は呆然と立ち尽くしていた。舞台装置の硝子柱たちが煌々と輝き、里英を包み込んでいた。冷え冷えとしていた舞台の雰囲気は消失していて、親密な空気に満ちていた。よそよそしかった扉も、今ではなんだか親しみ深く見える。里英の頭の中はからっぽで、何も考えることができない。手が軽くしびれている。

「北原さん」

 里英に話しかけたのは阿弥だ。阿弥の大きな瞳は少し涙がにじんで潤んでいる。

「こんな言い方は変かもしれないけど、ありがとうございます」

 阿弥の言葉に里英は驚いた。

「阿弥ちゃん。ありがとうだなんて、何が?」

 阿弥の思いがけない言葉に里英は驚いた。

「うまく言えないですけど、北原さんのセリフにとても勇気づけられたというか。自分も演者なのに歌っている中で感動しました」

 阿弥は大きな目でまっすぐ里英を見つめている。

「幼い頃の自分を思い出して、それから今までのいろんな思いが湧き上がってきました。今まで頑張ってきて本当に良かったと心から思いました。この舞台が気付かせてくれたんです」

「奇遇だね。私もほとんど同じことが思い浮かんだよ」

「メンバーと支え合っていくことの重要さ。自分がそうすることが好きだからこそ活動しているんだって改めて感じることができました。それは北原さんと一緒に演じたことが大きいんじゃないかって思って。だから、ありがとうございます」

 里英は笑って首を振った。

「私も阿弥ちゃんから教えられたことがたくさんある。どんなに辛いときだって気持ちが折れずにやり通せるのは本当にすごいと思うもん」

「いやいや、私なんて強情で融通が利かないし、強調性もないし。学生時代から暗かったんです」

 阿弥は苦笑しながら言った。

「でも、もし北原さんが小さい頃からの友達だったら、もっと楽しい学生時代を過ごせたんじゃないかなって思います」

「今からでも、友達になろう」

 里英はにっこりと笑い、阿弥もはにかんで笑った。

***
〈最後のシーン〉
 歌が終わる。
 気がつくと舞台に立っているのは阿弥ひとりだ。
 本当は初めからひとりだったのかもしれない。
 軋む音をたてて扉がゆっくりと開く。
 扉が開ききると、あたりは異様なまでの静けさに覆われる。
 扉の先から中立的な、まばゆい光が注ぎ込んでいる。
 阿弥は無言だ。
 それは起こるべくして起こったことだと受け止めているように見える。
 阿弥はゆっくりと扉に向かって歩き出す。

 終幕。
***


「里英ちゃん知ってる?」

 隣を並んで歩く亜樹が言った。

「AKBには曲が何百曲もあるらしいよ」

「うん」

「なんだか信じられないね。そんなにたくさんあるなんて」

 赤と緑が穏やかに混じり合ったすずかけの木の葉がはらりはらりと落ちる。

 まるで里英と亜樹の歩調に合わせるように。

 すずかけの並木道を2人は歩く。終わらせるまで終わらないAKB的リフレインの渦の中の、ほんの一時の夕凪を歩く。

 下校途中の小学生たちがはしゃぎまわりながら里英と亜樹の横を通り抜けていく。

「いい曲がたくさんあるよね」と里英は言った。

「そうだね。でもたくさんありすぎて何が何だか分からなくなっちゃうね」

 そう言って笑う亜樹の表情が、昔のままであることを里英は嬉しく思った。

「あきちゃ」

「なに?」

「今日、わたしこれから劇場公演なんだ」

「いいなぁ、楽しそう」

「きっとすごく楽しいと思うな」

 2人は広場の真ん中にたどり着いた。そこに木々に囲まれたベンチを見つけて、並んで座った。とても心地いい風が里英の髪をなびかせた。

 2人の間に会話はなかったが、なぜだか同じ歌を心の中で思い浮かべている気がした。さっきまで歌っていた歌だ。

 しばらくして亜樹が口を開いた。

「ずっとこんな日が続けばいいのにね」

「うん、そうだね」

 でも、もちろんそうはいかないことを2人は分かっている。

 時間はちゃんと流れている。限られた時間の中でやるべきことをやらなければいけない。

「じゃあ、わたしそろそろ行くね」

 里英は立ち上がった。

「うん、公演がんばってね」

 亜樹は言った。

 陽の傾いた並木道を、里英はふたたび歩きだす。

 秋はこれから深まり、幻想と現実の境目を滲ませていく。

続く

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