『歌いたい』-きたりえの視点(2)

2.雨 - akb48show

 雨が一様に降り続けている。

 夏から秋へと変わりゆく季節の雨は、不意に忘れかけていた記憶が鮮明に蘇るように、気持ちをどこか遠くにさりげなく連れ去ってしまう。

 里英は窓の外を眺めていた。

 雨に煙る眼下のビル群はひどく非現実的に見え、のっぺりとして遠近感を失っていた。

 高層ビル群は、上空の雲から降りしきる雨を静かに浴びて、内側に小さな世界を抱えている。

 里英はその無数にある小さな世界の一つの、その一端のソファに腰をおろして窓の外を眺めている。

 里英は閉ざされた世界の中で、雨雲の上の空のことを想った。地上が灰色の雨に包まれていても、雲を通り抜ければそこには何の混じりけもない真っ青な空が広がっているはずだ。

 里英は腰をあげて窓に近いた。右手でそっとひんやりとしたガラスに触れる。目を閉じて耳を澄ますと、雨の振動をかすかに感じた。

 不意に、ソファの上のスマートフォンが鳴った。

 里英はスマートフォンを手に取り、ディスプレイを見た。LINEの通知が来ている。

 指原莉乃からだ。

 世界が時間を引き延ばしたような秋雨に包まれていても、遠く離れた福岡からシグナルはちゃんと里英のもとに届いてくる。

 莉乃からのLINEを見ると、動画が送られていた。“なこみく”と莉乃の微笑ましい動画だ。小さなスマートフォンの画面の中では、“なこみく”の2人がはしゃぎ回って躍動している。莉乃がそれをはやす声も聞こえてくる。それに答えて“なこみく”はさらに楽しそうにはしゃぐ。

 里英の厚ぼったい唇から笑みがこぼれる。本当に“なこみく”が可愛いと思う。

 里英が返信を送ると、すぐさま別の動画が送られてくる。里英は自分の顔がほころんでいくのを感じた。

 里英が再び返信するとさらに別の動画が送られてくる。きっと今リアルタイムで起こっていることを動画で撮っているのだろう。

 しばらく送られてくる動画に対して里英が何かしらの感想を言う、そしてまた莉乃が新たな動画が送られてくる、というやり取りが続いた。

 最近ではあまり会う時間がない里英と莉乃に、“なこみく”の2人が楽しい話題を提供してくれる。

“なこみく”と“りのりえ”、と里英は思った。

“なこみく”程には子供ではなかったが、里英は莉乃と一緒に無邪気にふざけ合って心の底から笑い合った日々をとても懐かしく思った。かなりネガティブな性格で独特の感性を持った、似た者どうしの2人は本当に気が合って、唯一無二の特別な友人であった。

 2人を出会わせたのはAKB48だ。が、また2人を引き離したのも同じようにAKB48だ。選抜総選挙、姉妹グループ発足、組閣、ユニット活動、移籍、大島優子の卒業、それに伴う事実上のユニットの解散、さまざまな出来事が2人を取り巻く状況を変化させる要因となった。

 今では、最後に会話をしたのがいつだったか思い出せないほど会う機会がない。“りのりえ”はもはや死語になりつつある。

 しかしその中でも変わらない物事だってあるはずだ。少なくとも、くだらないことで笑い合ったり、将来の自分たちについて真剣に語り合ったりした事実、そしてその記憶は変わることがない、と里英は思う。

 里英は目をあげて窓越しの空を仰いだ。どこか雲の分け目から青空が見えないかと探した。しかし、空を覆う雲はあまりにも生真面目に、まんべんなく敷き詰められていた。

 そろそろ時間だ。里英は諦めてスマートフォンをバッグにしまい、エレベーターに乗った。



「それでは本番行きます。5秒前…」

 里英は撮影セットの扉の付近にスタンバイしていた。夏物のステージ衣装を着ている。

 スタッフの合図とともに、里英はノックして扉を開ける。
「失礼しまーす。お邪魔します」

 中に入ると高橋みなみがオフィスチェアに座っている。小柄で、オレンジ色のジャージに身を包んでいる。

 セットの正面には数台のカメラ、照明、そしてスタッフがずらりと並んでいる。

「北原さーん。こんにちは」

 あえてよそよそしい感じでみなみが話しかけてくる。

「どうもです」

 里英は向かいの椅子に腰かける。なんとなく緊張して、自分の声が低くなっているのが分かった。

「まあ、今日はきたりえとしゃべっていきたいと思うんですけども、何からしゃべろうかなー」

 みなみは笑みを浮かべてそう言った。

「最近どう?」

 ざっくりとした質問だ。

「最近ですか。すごい、楽しく生きてます」

 里英は答えた。答えてから滑稽な物言いだと感じて自分で笑ってしまった。

「今、大人になってできることが増えたので、それをやるのが楽しいですね。旅行に行くとか」

「行ってたんでしょ、この前」

「そう。先日行きました。あきちゃとうっちーと、箱根に」

「めっちゃエンジョイしてるじゃんか」

「めっちゃエンジョイしてます。それも自分で調べて予約とかして、ネットで。それで自分で電話して予約とったんです」

「マジ旅行だね」

「マジ旅行。ほんとう自分たちの力でみたいな」

「大人になったね」

 みなみが感慨深げに言う。

「いや本当に思いますよ。大人になったって」

 里英が大儀そうに言う。

「あきちゃもきたりえも同い年ですから」

「そう、みなみちゃんとは同い年」

「23歳世代ね。多かったのに少なくなっちゃったからね、この世代」

「本当に多いですね、卒業。まあ、そっか。単純に大人になっていってるから、当り前か」

 みなみは一呼吸おいて里英の顔をじっと見つめた。

「もう単刀直入に聞くわ」

 みなみが本題を切り出す。

「私は心配してるんだよ、北原さんを」

「…しそう?」

 里英は『心配』と言われたことについてドキリとして反射的にそう答えた。

「“しそう?”って言うなや」

 みなみは苦笑する。

「ファンの人も心配してるというかさ。やっぱり総選挙もしかり。あと秋のシングルの選抜発表の時もさ、きたりえが呼ばれなかった訳でしょ」

「うん」

 里英はうなずいた。

 みなみは32人選抜のシングル『希望的リフレイン』に里英が入れなかったことを言っているのだ。

 そういう類の話題が出てくるであろうことは、なんとなく里英の想像の中にあった。里英はそのことについてはすでに心の整理はついていた。少なくとも整理がついている、と自分には言い聞かせていた。

「もちろん、自分も選抜に入らなかったけれども」

 里英は両手で目の前に架空のスペースをつくる。

「それよりももっと心配するところがあったから、それどころじゃなかったです」

 そのスペースを脇に押しやる。

「それは例えば、言える範囲でなんか、ある?」

「たとえば、“三銃士”の2人とか」

 それを聞いたみなみは何度もうなずいて、そうね、と呟く。少しニヒルな笑みを浮かべているように見える。

「その子たちが心配になった。分かるから、気持ちが」里英は言った。

「でもそれってすごく大人になったからってことだよね」

「自分で言うのもなんだけど、昔から自分のことより人のことっていうタイプだから」

「それも心配。そういう性格も心配」

 みなみにそう言われて里英は苦笑するしかなかった。

「大丈夫?って言える子だから、気もつかうしね」とみなみが言う。

「私は…」

 里英は言った。

「AKBの活動を自分なりに全力でこれまでやってきて、もちろん今も全力ですけど、理想とするところまでは行けなかった。でも少なくとも自分が望むポジションまでは行けたかなと思います」

 里英が語る内容は個人の生き方の問題だ。エゴイズムの問題。里英はエゴイストにはなりきれない。他人を押しのけてまで、自分の存在を突き詰めるということが里英にはできない。自分にとってのチャンスはいままで十分に与えられてきたし、その与えられたチャンスについては自分なりの結果を残してきたと思ってしまう。

 そう思ってしまう自分がもどかしく、わずらわしく感じることがあるのも事実だ。それでもやはり、自分の性根に合わないことはできないものだと里英は思う。

 そしてまさに、高橋みなみが“心配だ”と言っているのも里英のそんな性格についてなんだろうと、里英は分かっていた。

 少しの沈黙の後、不意にみなみは言った。里英が想像していなかった質問だ。

「今のAKB、どう?」

「…、それは…」

 言葉を選ぼうとした里英の心に、いきなり熱湯が注がれたように激しい感情がとめどなく押し寄せてきた。

 里英は自身の心の動揺に驚き戸惑った。

「うーん。難しい」

 里英は必死に平静を保って取り繕おうとする。

 しかし、それはうまくいかないということがすぐに分かった。
「泣きながらしゃべってもいいですか」

 そう言う里英の声が震える。まぶたの裏が熱くなる。

 これはやばい、と里英は思った。テレビの収録だというのに。

「いいよ」

 みなみは優しく微笑んで言った。

「…私も変わっちゃったし、AKBも変わっちゃったし」

 里英は声を絞り出すように言った。

 唇がふるふると震え、涙があふれてほほを伝う。

「もちろん今でもAKBが好きだけど、今のAKBのために私がやれることがもう…、そんなに見つからない」

 すべては変化してしまった。頑張ることの意味合いすら変わってしまった。

 身も心もすべて捧げる覚悟で何かをすることは、かつてはできていたことだが、今の里英にとってはもうできないことだった。

 不可能なのだ。それが分かってしまうことがとてつもなく切なく、悲しい。

「私がやれることはもうやったかなと。先輩たちと、いちばん一生懸命だった時間をがんばってこれて良かったです」

 里英は大きく息をついた。自分が泣き崩れなかったことに安堵した。

 大人になったのだ。

 後に残ったものは喪失感だけだ。

 気がつくとみなみも里英と同じように涙を流していた。

「よく分かる。私も立場はちょっと違うかもしれないけど、同じ気持ち」

 里英もみなみも泣いていた。その涙が2人の決して言葉では表現しきれない気持ちを物語っていた。

 非常に濃密で特別だった時間を2人は共有してきた。そしてそれがもう再び手に入ることはできないのだと、二人とも分かっていた。

 時間はとても残酷だと里英は思った。

「劇場公演にはずっと出たいな。歌って踊ることだけはやめたくない」

 しばらくしてから里英は言った。

 劇場で歌って踊ることだけはずっと好きでいると思う、その気持ちだけは変わらないと里英は確信を持っている。

「また、みんなで劇場公演やりたいよね。“ひまわり組”みたいな」

 みなみが言った。

 里英は笑った。

 雨はまだ降り続いている。


(続く)

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