『歌いたい』‐きたりえの視点(9)

9.私のために、誰かのために。

 里英のセリフに続いて曲のイントロが流れ出す。

 阿弥が歌い始める。心の歌を。希望の歌を。

私は今、歌い始める
かすかな光に
手を、そっと伸ばして

 少し不安定だが、強い決心を思わせる声だ。里英も勇気づけるようにそれに合わせて歌う。

 座りこんでいたメンバーたちも立ち上がり、忘れていた歌を歌い始める。歌は次第に大きく、力強くなっていく。いくつもの支流がつなぎ合わさって大河になっていくように。海を越えていく渡り鳥の群れのように。

どんな悲しいことでも、どんな悔しさも
理由にはならない
それが大事な夢なら

 彼女たちの歌声に呼応するように、周囲の硝子柱が輝きを放ち始める。皆の歌は、遠くの誰かに届くことを願って紡がれていく。

私は今、歌い始める
昨日の自分に
決別するために

 2番の最初のソロパートを明日香が優しく伸びやかな声で歌う。とても心地の良い歌声だ。彩佳も衒いのない笑顔で前を見据えてそれに続く。皆が楽しそうに、心をこめて歌う。彼女たちの周囲に光が満ちる。閉ざされた世界にいた彼女たちの迷いはもうない。それぞれが力を合わせて、仲間と自分自身を励ます。

 しかし…

 しかし、そんな彼女たちの決心を嘲笑うかのように、間奏で光が突然消滅する。暗闇が訪れる。

 それでも彼女たちは揺るがない。時には心がくじけて立ち止まってしまうこともある。夢を持つことをあきらめてしまう時もある。

 今度こそ彼女たちは歌い続ける。たとえ誰も聴いていなかったとしても、自分たちのために歌う。

 無我夢中で、すべてをさらけ出して。

私は独りじゃないんだ、仲間たちがいる
時にはつまずき倒れて、傷ついても
歌い続ける

 光は再び宿る。希望の光はそれぞれの胸の内にちゃんと生きている。たとえどんなに寒々しい暗闇の中でも。

 大サビを迎え、歌はさらに力強く、すばらしいものとなっていく。歌を歌う里英たちは、全体がひとつであり、ひとつが全体であった。それに呼応するように光はさらに強く、あふれんばかりに輝きを増す。

壁の隙間から、細い光が洩れて
闇の中に射し込む
希望はそこにあるんだ

 里英たちのいる空間は、ただの撮影現場ではなく、ある種の異空間へと変貌していたかもしれない。くるくると空回りするように流れていた時間は、綿密なうねりを持つ流れへと変質した。踏みしめる床はどこまでも確かにその存在感を示し、里英たちを支えた。肺を満たす空気は濃く、呼吸をするたびに新たな自分へと脱皮していくようだった。

 私は一人じゃなかったんだ、と里英は思った。あの頃、誰も理解してくれないような夢を思い描いていた。理解されないことが悲しくてひとり、こっそりと泣いていたこともある。

 そんな自分にいま、こんな未来が待っていたなんて。仲間たちと一生懸命になって歌を歌っている。その仲間たちも里英と同じように理解されず泣いていたのかもしれない。それがみんなこうしてこの場に集まった。そう思うと里英の孤独感はすっと消えて、暖かい気持ちが胸に宿った。

 里英は歌いながら、誰もいないはずの客席に人影を見た。あれは少女だった頃の自分だ。少女は客席の一角にちょこんと腰をおろして、静かに里英を見つめている。

 里英はその少女の未来を誇りに思う。

 あなたの夢はちゃんと叶う。心配しないで。勇気を振り絞って精一杯がんばればいい。里英は少女に向けて全身全霊を込めて歌う。少女が客席からそっと微笑んだ気がした。里英は歌いながら涙が溢れそうになる。目が涙で滲み、少女の姿をもう見ることはできない。

 大丈夫。心の扉さえ閉ざさなければ、まだ私は未来へ進んでいくことができる。


続く

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