『歌いたい』-きたりえの視点(6)

6.十字架 – 夢想 – 現実 – 葛藤

 撮影を行うステージはほの暗く、天井の照明が撮影セットの輪郭を寒々しく浮かび上がらせていた。

 鉄骨の足場がステージの中央に2段、3段と組まれ、硝子柱がそれを取り囲むように立てられている。あるいは硝子柱は、折り重なるように倒れて、中には砕け散って硝子がばらばらと床に散らばっているものもある。

 不穏な雰囲気に、里英をはじめとするメンバーみな、息をのんでその風景を見つめた。何よりも目を引いたのは、中央の一番高い足場のすぐ後ろにひときわ高く立っている一本の硝子柱だ。その柱の中ほどに、もう一本の硝子柱が横向きにくっついていて、正面から見るとあたかも巨大な十字架のように見えた。

 幻想的な雰囲気の荒廃した場所。これが今回の撮影の舞台。その中に里英は、冷ややかで緊張感を含む空気を感じた。

 里英は、ステージの右端に頑丈そうな縁取りがされた木製の扉があることに気がついた。その扉は、薄暗い闇の中に深い緑色の体を溶け込ませ、息をひそめてじっと佇んでいる臆病な大動物のように見えた。

 集められた25人のメンバーは皆どことなく不思議な衣装を着ている。中世ヨーロッパの革命を起こす人々を思わせる服装(映画『レ・ミゼラブル』のような)のような感じだが、それにどこか未来的な要素が足されている。

 例えば里英の衣装は、レトロな白いドレスシャツに、真っ赤なライダースパンツとそれに付随するショートスカート。ベージュ色のベルトはコルセットのように大きい。足元は黒のロングブーツ。髪はひと束の大きな三つ編みにして後ろに束ねられている。

 硝子の十字架、鉄骨の足場、黙して語らない扉、そして不思議な衣装をまとったメンバーたち。

 里英たちは舞台上にあがるようにスタッフに促された。25人のメンバーが舞台に上がり、その後からミュージックビデオ撮影の監督が上がった。

「みなさん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」と、監督が言った。

「おはようございます、よろしくお願いします」とAKBグループのメンバーたちは声をそろえて言った。

「今日はみなさんに舞台を演じてもらいます。おおよそのストーリーは事前に配った資料で確認してもらっていると思います。ミュージックビデオ用の舞台ですので、観客が入る訳ではないし、それほど長いお話でもない。でもこの舞台は、『歌いたい』という歌にとてもリンクしているものとなっています。この舞台をいかにすばらしいものにできるか、それが曲自体の価値を決定づけると言っても良いでしょう」

 監督はいったん間を空けて25人の顔を眺めた。

「一人ひとりにセリフを割り当てられています。このセリフ一つひとつは、単純にストーリーを形作っていくためだけのものではありません。ましてや、あなたがた一人ひとりに、ただ単にスポットをあてるために割り振られたものでもない。

 自分に与えられたセリフをしっかり覚えてきたと思いますが、全体の流れの中で、その言葉がどういう風に響くのか。いま一度、そこに込められた意味をよく考えてみてください。また、共演者のセリフにもよく注意を払ってほしい」
 監督はゆっくり、はっきりと言った。

「全てのセリフに意味が込められています。それぞれみなさんがこの舞台に新しい意味を吹き込んでいくんです。全体で大きな、力強い流れを作る。

 すばらしい物語というのは、それに触れた人々、出演者も観客も、全員がそこにある名状しがたい力を浴びて、その人の中のスイッチを切り替えたり、脳細胞の組成を変化させたり、激しい感動によって新たな人間に生まれ変わらせたりするものなんです。あるいは深い共感をもたらし、心を癒すものです。

 みなさんもきっと、日々のご活躍の中でそういった体験をされたことはあるかもしれませんね。今日の舞台でもそういったすばらしい体験をしてほしいと思います。そしてこのミュージックビデオをご覧になる方々にも同じような深い感動を味わっていただきましょう」

 監督はひとつ咳払いをして話の間を空けた。メンバーたちにいま言った言葉がしっかり浸透するのを、時間をかけて待っているのだ。
メンバーたちは口をつぐんで耳を傾けている。沈黙の中で誰かの息づかいがかすかに聞こえている。

 里英にも監督の言わんとしていることが分かる気がした。
言葉だけでは表現することが不可能な物事があるから、歌や芝居というものが存在するのだ。

 やがて監督は、再び口を開いた。

「後ろのセットを見てください」

 メンバーたちは後ろを振り向いた。

 そびえ立つ硝子柱の十字架は、目の前見るとより一層巨大に見えた。

「みなさん、このセットを見てどことなく違和感や不思議な感覚を覚えたんじゃないでしょうか。そう感じたのならその通りです。実際に住む世界ではこんな風景はおそらく今まで見たことがないでしょうし、この先も見ることはないでしょう。セットを構成する一つ一つのオブジェクトはそんなに珍しいものではないが、その組み合わせがみなさんの感じる印象の中に違和感を生んでいます。空想と現実。この二つが混じり合った世界の中でみなさんにはお芝居をしてもらいます」

 監督は言った。

「あなたたち自身も空想と現実のまじりあった世界に生きているはずです。その中で感じることがあるはずです。アイドルとしての自分の気持ちと、そうではない心の奥底の自分の気持ち。その2つがせめぎあって時に苦しくなることもあると思います。その気持ちこそを、この舞台で表現してもらいたい」

 監督は続けた。

「そして右側に扉があります」

 メンバーたちは皆、右側の扉を見た。扉はあいかわらず臆病な大動物のように息を殺してじっと隅にうずくまっているようだ。

「物語の設定の中で、あの扉は唯一、外の世界とこの内側の世界をつなぐ出入り口となっています。しかし今は固く閉じられていて開けることはできない。みなさんは何らかの事情でこの中に閉じ込められています。でも生活に不自由はなく、安全は保障されている。それに、外に出られたところで何があるか分からない。何か危険が潜んでいるかもしれない。それでもこの中から出たいと思う人がいる。逆に出たくないと思う人もいる。いろんな考えの人がいるのは当然ですね。

 ただひとつ言いたいのは、あの扉が何を意味しているのか。そこのところをそれぞれみなさんに考えていただきたいということです。あの扉はある種のメタファーです。メタファーって分かりますかね。隠された別の意味があるってことです」

 監督はコツコツという靴の音を響かせて扉の方に向って歩いた。

「みなさんのバックグラウンドことはよく存じないのでこれは私のおせっかいな想像ですけどね。きっとこの曲を歌うメンバーにみなさんが選ばれたということにはそれなりの意味があるんじゃないかと思います。
日々の活動の中で感じるいろんな感情があるでしょう。嬉しさ、楽しさ、悲しさ、怒り、慈しみ、後悔、諦めとか。それらの感情を今日のお芝居ではできるだけ心から表現してほしい。そうすることで、今日のこの舞台を通して、みなさんそれぞれが扉のメタファーと向かい合えることを期待しています」

 監督の話はそこで終わりだった。

「それではそろそろ始めましょう」

 監督はそう言って舞台袖の階段から降りようとした、が途中で振り返った。

「ああ、それともうひとつ。言い忘れたけど、みなさんは各グループから選ばれて集められた方々ということは互いによく知らない人もいるでしょう。それぞれの立場もあると思いますが、お芝居と撮影を通していろいろ分かり合って理解し合えると良いですね。気持ちが通じ合うというのが一番大切なことです」

 監督は今度こそ階段を降りた。

 “かとれあ組”。

 それがこのカップリング曲のメンバー25人につけられた名前だ。里英には自分が“かとれあ組”に選ばれた理由がなんとなく分かるような気がした。

 今回発売されるシングル『希望的リフレイン』では、異例の32人選抜ということで通常のシングル選抜の倍ほどの人数にもなる。各グループからその選抜メンバーが選ばれた。知名度の高い選抜の常連メンバーや期待の若手たち、それからサプライズ抜擢のような人選もあった。

 “かとれあ組”はその選抜ではないメンバーたちで構成されている。言葉にはされなくとも、それぞれが複雑な胸中を抱えているであろうことは容易に想像できる。

 彼女たちは将来を渇望される若手というわけでもなく、確固たる地位を築いた選抜メンバーでもない。彼女たちは絶えず変化を続け、形が変わっていく48グループの流れの中で、その淀みに身動きが取れなくなっているのかもしれない。

 少なくとも里英には、絶えず彼女が抱えている葛藤が、舞台の背景と混ざり合うことで何かしら意味のある色彩を浮かび上がらせつつあるような気がした。


(続く)

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