『歌いたい』‐きたりえの視点(7)
7.摩天楼の距離 - レモン - カルビ - 私は私
「だめです。もう一度やり直し」
監督の声が一人のメンバーのセリフを遮る。
そのメンバーは少しうつむいて最初の立ち位置に戻る。
里英たちほかのメンバーはステージの脇でその様子を見守っていた。
このMVの一人ひとりのセリフはそんなに長いものではない。この舞台がミュージックビデオに収録される時間も10分か長くてもせいぜい15分程度だろう。それでも、セリフの言い回し、立ち振る舞い、間の取り方など、あらゆる部分で監督からのダメ出しが容赦なく飛んだ。監督が求めるレベルは高く、レッスンは難航した。
里英など舞台の経験があるメンバーは監督の意図を理解しようとし、試行錯誤を重ねて、演技をより洗練されたものに近付けていくことができた。だが、中には舞台を経験したことがない若いメンバーもおり、そんなメンバーは不慣れからか、何度も何度も修正を余儀なくされると、途方に暮れてしまうか、あるいは混乱して涙を流してしまう。
そのたびに、里英や明日香、亜樹、それから梅田彩佳(彼女はAKBグループの中では舞台のエキスパートと言ってもいい)といったベテランメンバーが後輩にアドバイスをし、励ます必要があった。
里英にはおそらくすべての役柄の中で一番長いセリフを与えられていた。しかも最後のセリフは歌のイントロへつながっている。仲間や自分自身を励ますように心をこめてセリフを言う場面。ストーリーの中で一番重要な部分だ。監督からの要望も必然的に多くなる。里英は演じる役柄を出来る限り自分自身と同化させ、演技の中に没入するように努めた。
個人のパートや各セクションにおける演技の練習がようやく終わり、いったん昼休憩となった。時刻はもう正午を回っている。3時間以上も続けてレッスンをしていたらしい。
里英は休憩の前にSKE48の柴田阿弥に呼び止められた。芝居中に里英とのやりとりがいくつかあるので、阿弥はそれについての確認をしたかったのだ。
阿弥はこの曲のセンターを務める。今回招集された中で、唯一今年の選抜総選挙で16位以内、すなわち『選抜』にランクインしたメンバーだ。
阿弥はその結果を勝ちとるべくして勝ちとったメンバーだと里英は思う。かつて里英がSKE48を兼任していたときに彼女のことを知るようになった。阿弥は他のメンバーと群れず、強固な独立した意志を貫き続ける。里英はそんな彼女のことを、自分には持ちえない種類の資質を持っていると感じ、尊敬の念すら抱く。そんな阿弥は『希望的リフレイン』の選抜メンバーに選ばれても少しも不思議ではないし、むしろ“かとれあ組”のリストにその名前がある方が多少の驚きを禁じ得ない。
そういう意味では、彼女は“かとれあ組”の中である種、異質な存在だと言える。阿弥はここでも他のメンバーと積極的に関わることなく黙々と自分の役を演じていた(少なくとも里英の目にはそう見えた)。きっと今回の選抜から漏れたことに対して内心穏やかではないだろう。
里英は、彼女の瞳の中に強い光を垣間見た気がした。
里英が楽屋に戻ると、隅の方で市川美織がイスに座ってうつむいており、その横に梅田彩佳が付き添っていた。里英は美織が気になったので、まず先に支給された弁当と差し入れのお菓子と飲み物を必要な量だけ確保してから美織と彩佳の向かいに座った。
「みおりん、どうしたの?」
里英がそう問いかけると美織はゆっくりと顔をあげた。目には少し涙がにじんでいる。
「きたりえさん。私、カツゼツが悪いんです」
「うん、知ってる」
里英は真面目な顔でうなずいた。
「きたりえさん…」
「私もカツゼツ、滑舌悪いからね。それについてはちょっとお互い頑張ろうとしか…」
里英はおどけるように顔をしかめながらそう言って、弁当のふたを開けた。
焼肉弁当だ。
「そうそう。きたりえだって滑舌悪くてもこんなにできるんだから気にすることないよ、みおりん」
彩佳が美織の肩にそっと手を置いて言った。
「でも、先輩方はとっても演技が上手で、それに比べて私は…」
美織は、セリフの途中で情緒不安定になるという、なかなか難しい役柄を演じる。先ほどまでの練習で、監督に何度もダメ出しをされたことが少しこたえているようだ。
「もう、みおりん。そんなんじゃ立派なフレッシュレモンになれないよ?」
彩佳は美織の頬を軽くつねった。
「みおりん大丈夫だよ、がんばろう」
里英は自分用に確保したお菓子をひとつ美織にあげた。
美織はそれでもまだうつむいてじっと黙っている。
彩佳は心配そうに美織を見つめ、頬づえをついた。里英も割り箸を割りながら、美織の長いまつげが細かく震えるのを見た。
「私、思うんだけどね。今回のこのミュージックビデオ撮影って実はすごく意味の深いものなんじゃないかって気がする」
しばらくして彩佳がひとりごとのように言った。
「あの舞台はただの作られた空想のストーリーなんかじゃない。あれは、今日ここにいる私たちメンバーの心の中を、目に見えるかたちにしたものなんだと思う」
「どういうことですか?」
里英はカルビを口に運びながら聞いた。
私たちの心の中?
「もちろんこの舞台がそっくりそのまま私たちにあてはまるってわけじゃないけど」
彩佳は眉をしかめて言葉を探しながら答えた。
「なんていうか、AKBでの活動ってすごくめまぐるしいじゃない。全然後ろを振り返る余裕もないくらい。楽しいことも辛いこともたくさんあって。
そんな中、ふと、今のままでいいんだろうかと思う時があるの」
彩佳は鼻をかいて眉をちょっと寄せた。
「はじめのうちは夢や希望があって一生懸命走ってたんだけど、気づいたら目標を失っていて、いろんなものから取り残されているような感覚。無我夢中で走っていたのに、いつの間にか何をがんばればいいのか分からなくなる。そういう感じ分からない?」
「分かる気がする」
里英にもそれは分かる気がした。
「いろんなしがらみがあって、何が正しいのか分からなくなる。そして走るのに疲れてしまって何より安定を求めてしまうの。でも安定を得るためには、それと引き換えに夢や希望を失ってしまう。それってAKBのもともとの本質とは真逆のことだと思う。AKBは何度もピンチに陥ってきたけど、その度にそれを打ち破ってここまで大きくなってきたのに」
彩佳は右手で前髪をすくいあげて耳の後ろにかけた。
「もっと言えば、自分を知らず知らずのうちに騙しているってことだと思う。私には、同期で優子や佐江ちゃんや才加、ともーみとか有華とか私より全然すごい人がたくさんいたのよ」
「そんな、梅田さんだってすごいですよ」
美織が顔を上げて彩佳に言った。
彩佳は微笑んで首を振った。
「そりゃ最初のうちは優子たちに負けないように、バンバン張り合って行ったよ。でもね、限界を感じた」
彩佳は淡々とした口調で言った。
「でもそんなこと認めたくなかったから、優子は優子、私は私って自分に言い聞かせた。私は私のペースでやればいいって、そう言い聞かせたの」
「それはダメなことですか?」と里英は言った。
彩佳は首を振った。
「その時は仕方なかったと思う。そう思わないことには自分というものを保てる自信がなかった。自分の存在を肯定する必要があった。正当化する必要が。
ただし今の自分は大切なものと向き合うことから逃げている、最終的にはそのことに気がついていなきゃいけないと思う。それにちゃんと気づけてもう一度向き合うことができれば、大丈夫」
彩佳の言葉に里英の心はズキッと傷んだ気がした。
「逃げ続けてちゃいけない。そうしてるといつの間にか何から逃げているのかも分からなくなって完全に迷子になってしまう。あの舞台は、そんな変わっちゃって道に迷った自分と、AKBの間にできてしまったギャップを表現してるんじゃないかな」
彩佳は目の前の中空の一点を見つめてしゃべっている。
今では美織も顔をあげて彩佳を見つめている。
「ここには特にそういう気持ちにとらわれてしまったメンバーが集められている?」と里英は言った。
彩佳は里英を見てうなずいた。
「そうだと思う。まあ、それはどのメンバーでも多少は思う気持ちだと思うけど。ここにいるメンバーは特に」
沈黙が訪れる。
美織は難しい顔をして自分の両手を見つめている。
「でも」と里英は言った。「ミュージックビデオの中で舞台をやるっていうのは新しい試みですよね」
「そうだね」と彩佳は同意した。
「曲もいままでのAKBの曲にはなかったような感じで。歌唱力が試される曲だし。まぁ私は歌唱力ないですけど。こういう新しい試みをすることで、そういう停滞感を打ち破ろうということなんじゃないですか」
「うん、その通りだと思う」と彩佳はうなずいた。
「だから今回のミュージックビデオ撮影は重要な意味があると思うの。それぞれくすぶった気持ちを持ったメンバーが各グループから集まっている。みんなどこかでその力を発揮する場所を探していたと思うよ。
ただ可愛い振りつけを踊って、アイドルらしい歌を歌うのだけがAKBじゃない。この『歌いたい』みたいな挑戦をすることで、新たな自分の可能性も見つけられるかもしれないし、グループに新しい風を吹かせられると思うんだ」
「扉を開けるんですね」不意に美織が言った。
「扉?」里英は聞き返した。
「ミュージックビデオのお芝居の中に出てくる扉ですよ。『誰がカギを閉めたの?』っていうセリフがありますけど、きっと鍵を閉めちゃったのは自分自身なんですよね」
「なるほど。その通りだね、みおりん」
彩佳は微笑んだ。
「私、元気が出ました。フレッシュレモンになるためにはこんなところで落ち込んでいられません」
美織はそう言って、立ち上がり楽屋を出て行った。里英と彩佳は顔を見合せて思わず笑った。
時間だけが経過していく閉ざされた世界と、その外の世界。それをつなぐ扉を開けられるのは自分自身しかいない。
自分のために歌うのだ。
続く
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