農に生きるーどろんこ村の日々ー             2016年3月

私が彼と初めて出会ったのは、39歳の誕生日の前日だった。もう冬の初めだというのに半ズボンと裸足で草履を履いて来た彼は赤いバラの花束を私にくれた。野菜といっしょに配達して残った物だったが、思わぬ誕生日プレゼントみたいでうれしかった。マンションの玄関で、半ズボンのポケットから真新しい靴下を出して履いた彼の、手と足の大きさにびっくりしたのを覚えている。彼はその時34才、渥美半島の農家の長男だった。

 その頃私は1年半前に離婚して3人の子どもを育てながら働き、ある女性の会で社会的な活動もしていた。その会では産直野菜を共同購入したいという話が持ち上がっていて、農家をさがしていた。渥美半島で有機野菜を作り名古屋に配達に来ていると言う若者がいることを知って、私たちの会も野菜を届けてもらおうと、代表の私が交渉係となって彼と会ったのだ。

 安全な野菜がほしいと繰り返し言う私に、彼は「安全安全って言いながら都会に住んで汚い空気を吸っている。そんなに言うなら田舎に住むべきだ」と言った。それがプロポーズの言葉というわけではなかったが、私たちは妙に意気投合し、会って数回で結婚を決めた。名古屋に住む私と4人の子どもたち(彼との子どもも増えた)のところに野菜といっしょに彼が通ってくるという生活を3年してから、私は渥美半島に移り住んだ。中学2年の次男と3才になった娘を連れて。

 畑は何もかもが新鮮で楽しくて、そしてしんどかった。オクラもピーマンもトウモロコシも生で食べてそのおいしさにびっくりした。大根の季節は朝も昼も夜も大根を食べると言っていた農家のおばさんの話を「貧しくて気の毒だなあ」としか思わなかった私。そうかこんなにおいしいから、おいしいときにたくさん食べるんだと、あたりまえのことにも初めて気づいた。キャベツやブロッコリーが畑で腐ったりすることも知らなかった。都会で消費者だった頃の私は、野菜BOXのなかの痛んだ野菜を見つけると、農家の人が古い野菜を入れたからだとしか思わなかった。安全安全と言っていただけの私は、農薬を使わないで野菜を作るということはこんなにも草取りが大変だと初めて知った。草取りの合間に見上げる、渥美半島の山々が見るたびに表情を変えるのも新鮮だった。真夏の風のない畑で草取りしていて、立ち上がったときにわずかに感じる風はどんなアロマやマッサージより心地よかった。

 保育園に迎えに来る作業着に長靴姿の母親に「前みたいにスカートできて」と泣いていた幼い娘も、授業参観の時スーツに着替えていった私に「目立ちすぎる!」といちゃもんをつけた中学生の息子も、少しづつ田舎と農的暮らしになじんでいった。私は都会にいた頃のように喫茶店に行くことも居酒屋に行くこともなく、体を使って一日中働いた。そんな自分を「あなたが農業をやるのは絶対無理!」と彼との結婚に反対していた昔の友達に見せたいとひそかに思っていた。

 そんなのどかな農の暮らしは、1年後大きく変化した。作業場を改装して、農家レストランとケーキの加工場と農家民宿をつくったのだ。夫が若いときから目指していた生産だけでない農業の実践に向けての第一歩だったが、経営感覚に疎い当時の私には農業体験に来た人をもてなす空間という意識しかなかった。せっかくの空間を日常的にカフェとして地元の人にも利用してもらおうと言う夫の提案に「畑仕事ならいいけど、客商売は死んでも嫌だ」と抵抗した。料理やお菓子を作ることも人をもてなすことも好きだったが、それでお金をもらう自信はなかった。しかし畑で野菜を作って、新たな売り先を探す自信は、それよりもっとなかった。渋っていた私も、自分で自分の食いぶちを稼ぐためと銀行から借りた改装資金を返済するためには納得せざるを得なかった。

 こうして農業体験施設「渥美どろんこ村」がスタートした。それに先駆けて朝日新聞がとりあげてくれたおかげで、その年の夏はそこそこ予約で埋まった。以前自分も住んでいた都会から来た人たちを農家としてもてなすのは楽しかったが、研修生がいるとはいえ、生産も加工も接客も夫婦2人でこなす日々は尋常ではない忙しさだった。植え付けや収穫で忙しい時期はおばあちゃんや研修生に留守番してもらって、ケーキだけ販売した。畑仕事をしながら、ランチやディナー・宿泊の予約が入ると頭も体も切り替えなくてはならない。爪の泥を落とすのももどかしいくらい私は忙しかった。ケーキを焼くのもいつも夜中だった。

 そんなに働いているのに8年間くらいは、赤字だった。生産だけでない自給的な農業を営みながら人を受入れたり接したりするのは、そしてそれで収入を得ようとすることは、こんなにも大変で体力のいることなのかとあらためて思う日々であった。私たちを見て「大変だねえ」と同情する人と「楽しそうだね」とうらやましがる人がいた。言われるたび、どちらも間違ってないけど…と思っていた。

 夫も私も一度もやめたいと思わなかったのはなぜだろう。自家製のタマゴと搾った山羊のミルクで焼くシフォンケーキはおいしいと評判で遠くからも買いにくる人もあった。でもどんなにケーキ屋がはやっても農業をやめてケーキ屋になろうとは思わなかった。

 私と夫の夢は、いつか子どもたちのための農業学校を開くことだった。育った環境も考え方も表現の仕方も違うけれど、夫も私も未来に働きかける仕事がしたいということはおなじだった。

 そしてもっとずっと後の事と思ったその夢が、渥美どろんこ村がオープンした年、ゼミ合宿でやってきた日本福祉大学の学生たちと出会って思わぬ早さで実現する事になる。「僕らが手伝うのでいっしょにやりましょう」と言ってくれた学生たちに背中を押されて、小学生10人とボランティアの学生20人で3泊4日のどろんこ村のファームスティは始まった。

 それから17年、今では小学生のファームスティは夏休み、冬休み、春休み、5月の田植え、9月の稲刈りと2泊3日のコースを年19回開催し、1年で200名近い参加者がいる。他にも、日帰りの暮らしの学校や若者のワークショップ、家族のファームスティ、1年間ファームスティなどもあって幅広い年代の人たちが楽しんでいる。大学の授業の受入れも毎年恒例となっているし、体験ボランティアに多くの大学生もやって来る。宿泊と食事と引き換えに農業を手伝ってくれる外国人の人たちも滞在したりする。

 ファームスティのお知らせは年5回、昨年と一昨年の参加者に送るのと、どろんこ村の野菜を届けている有機野菜の宅配会社に2,000枚のチラシを入れてもらうくらいで、ほとんど宣伝らしい宣伝をしていない。参加者の8割くらいはリピーターで、1年に5回来る子も少なからずいる。

 ファームスティの体験内容は、育てて作って食べること、につきる。子どもたちは海にいって流木を拾う。海水を汲む。アオサを集める。貝殻を拾う。夏はついでに海水浴。火を熾し、大鍋でエサを煮る。海水・アオサ・玄米・野菜と残り物や余り物も入れる。別の鍋で毎日近所の魚屋さんからもらうアラを煮る。貝殻を石臼で砕いて鶏のエサをつくる。アオサは天日に干してふりかけを作って自分たちで食べる。朝夕豚のエサをやる。豚と遊ぶ。鶏のエサを混ぜ、鶏小屋に行ってエサをやり、タマゴを拾う。春はエミューのエメラルド色のタマゴも拾える。畑で鎌を使って草を刈り、山羊のエサにする。毎日山羊の乳を搾り、ケーキを焼く事もある。籾摺りして玄米ご飯を炊く。畑で野菜を収穫し、洗って切って自分たちの食事も作る。泥のついた野菜をキッチンに入れて時々「泥は外で洗って!」と私に叱られたりしながら。

 都会から(中には田舎から来る子もいるが)ファームスティにやって来る子どもたちは普段便利で、清潔な暮らしをしている。自分が食べているものに命があったなんて感じることがあるだろうか。ましてやだれかがそれらを育てて、収穫して、首を切って、なんて想像できるだろうか。あまりにも分業化された社会のしくみの中では子どもたちのみならず大人でさえ、命とそのつながりを実感する機会は無いに等しい。

 どろんこ村で私たちは、田んぼから米を、畑からは野菜を、鶏からはタマゴを、山羊からはミルクを、豚や鶏からは肉を、それぞれもらいながら暮らしている。農薬や化学肥料を使わないせいかどうかわからないが、米も野菜もタマゴもミルクも豚肉も鶏肉も格別においしい。豚のエサやりも鶏の世話もめんどうくさいなあと思うときもある。汚いし、臭いし、やりたくないときだってある。寒い日は畑に行くのはおっくう。真夏の作業は汗まみれだ。田んぼの草取りなんて泥に這いつくばって汚くて暑くてしんどくて死にそうな気分になる。鶏の首を切るなんてできればやりたくはない。でもその全ての行為は、食べるのだから仕方がない。誰かがやったものを食べるか、自分でやるかの違いだけだ。たった2泊3日のファームスティだが、子どもたちはこの暮らしを体験する。暮らしのなかで生まれる様々な感情も経験する。

 生き物は必ず他者のいのちをエネルギ−として食べて生きている。学校で学ぶ知識も、考えることもそこを出発点にしていないように思う。生き物としての原点を私も見ないふりして都会で生きてきた。農家になってからもずっと他者のいのちを奪うことと、他者と共存することは矛盾することだと考えていたが、ここでの暮らしを続けるうちに、今は自分が生きていく上でどちらも切り離せない大切なこととして捉えられるようになった。ファームスティに来る子どもたちが、私よりずっと早くシンプルに力強くその原点を感じているのではないかと思う時があって、その自然体のしなやかさやたくましさに目を見張る。

 私たちは農家として畑を耕すように子どもたちの心を耕したい。種を蒔きたい。そして未来の子どもたちに向かって問いかけたい。これは私たちが選んだ暮らし。あなたはどんな選択をする? 都会暮らしのときには決してできなかった薄っぺらじゃないそんな問いかけを私は、心の中でし続けている。子どもたちが大人になった時にはちゃんと聞いてみたいと思いながら。

 ファームスティで育った子どもたちが今大学を卒業する時期になった。自分の進路を決める時どろんこ村のファームスティで学んだことを活かしたいと、この4月から若者4人がどろんこ村の住人になる。農業を目指したり、教師をめざしたりしながら、研修生として1年から2年ここで学ぶ。ひそかな私たちの問いかけへの答えかも知れないと思うと心の底からうれしい。

 さらに、1年間家族と離れてどろんこ村に暮らし、地元の小学校に通う「1年間ファームスティ」を選択した小学5年生になる女の子も2人やってくる。なぜどろんこ村に1年間来たいと思ったの?と聞いても二人とも首を傾げて笑う。楽しそうだから、動物がいるから、と言うが、それだけでない理由、本人もうまく表現できない何かががきっとあるに違いない、と私たちは思っている。それはもしかしたら、夫と私がこの生活を死ぬまで続けたいと思う理由といっしょなのかもしれない。

 26年前の38才の最後の日、夫に出会わなかったら、私はずっと都会で暮らしていたのだろうか。こんなふうに忙しくて汚くておいしくて楽しい刺激的な暮らしを知らないまま…。

農を通じて未来に働きかける最高の仕事に出会うこともなく…。

 何にしてもこの春からどろんこ村はにぎやかに楽しくなりそうで、わくわくしている。


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