空席の椅子の記念碑、背番号42

今日のオークランドとミネソタのゲーム前に執り行われたセレモニーはバーニー・ウィリアムズのギターによる国歌の演奏であった。90年代のMLBに君臨した当時最強のヤンキーズのセンターは今は熱心に慈善事業に取り込んでいるらしく、ゲストとして登場した放送ブースではコミュニティの価値について熱弁を奮っていた。

MLBでは2004年以来ずっと毎年4月15日は「黒人初の大リーガー(実際には1900年以降の近代野球で初の)」ジャッキー・ロビンソン・デーとして全チームの全選手がロビンソンの背番号だった42番を背負ってプレーすることになっている。それ自体は素晴らしいことだが、不条理な差別や人種間対立をなんとか乗り越えようという試みがこれだけ長いこと続いているのもまた事実なわけで、問題はそれだけ深刻であり、決して過去のものではないということなのだろう。

今年も日本と中国にルーツがあるガーディアンズのスティーヴン・クアンが鮮烈なデビューを果たしたように、MLBにアジア系の選手が増えているのは嬉しいが、COVID-19の流行以来続くアジア人への差別問題は止みそうにない。それ以前からも、たとえばMLBでも2017年にワールドシリーズの舞台でキューバ出身で日本でもプレーした経験のあるユリ・グリエルがダルビッシュに対してアジア人を侮辱するのに用いられる差別的なジェスチャー「slant-eye gesture」をしている姿がカメラに捉えられる事件があったのは記憶に新しい。MLBはシリーズ中の処分はせず、グリエルには翌年のシーズンに数試合の出場停止処分が課せられただけだった。アストロズはワールドシリーズを制した。

もしアフリカ系選手にバナナを示したり、紐の結び目を掲げるような真似をしたらどうなっただろう。グリエルの選手生命は終わったのではないか。アジア系への差別の処分の軽さが、今の各地のアジア人への襲撃事件を結果的に後押ししていないだろうか。アスレティックスのFacebookアカウントは今、アジア人差別に反対するメッセージをバナーに掲げている。つまり、アメリカではそれだけアジア人への差別的な扱いが続いているのだ。

先日、そのグリエルの母親が二人の息子が所属するトロントとヒューストンの試合を観戦し、二つのユニフォームが半々になったジャージを着て記念撮影した姿がFacebookに投稿されていた。大変喜ばしいことだが、親としては子供を野球選手に育てるのが上手なだけではなく、ちゃんと差別的ジェスチャーなどしてはいけないことも教えるべきだったとコメントしたところ、まあ予想できたことではあるがちょっとした炎上になった。主にヒスパニック系の男性のアカウントからslant-eyeを表すとされる絵文字が投稿され、「もうちょっと引っ張ったらお前の顔そっくりになったのにな」などと罵られたり、もう少し冷静な人たちからはハレの日にそんなことを言い出すなんて惨めな人生だなどと非難される始末。しかしアジア系のアカウント含めいくつかはきちんと賛意を示して大事な指摘だというコメントもあったのがやや救いではあった。

まあ、こちらの言い方もかなり嫌味っぽかったのは間違いない。以下に引用する。

「おめでとうございます、グリエルさん、今日は人生最高の日になりましたね。貴女が野球選手を育てるのに長けているのは間違いありません。でも、統計的になかったことにされることの多いアジア人として、どうしても貴女の教育についてひと言申し上げずにはおられません。僭越ながら、貴女はご長男には人前でアジア人差別のジェスチャーなどしてはいけないと教えておくべきだったと思います。たとえどこからか聞こえるドラム音が不思議なことに次のボールが速球かどうかを教えてくれるような時であっても」

もちろん、ドラム音のくだりは当時ヒューストンがチームぐるみで相手チームのサインを盗み、ベンチ裏のゴミ箱を叩いて速球か変化球かを打者に伝えていたことを指している。サイン盗みは2019年に暴露され、ヒューストン・アストロズは誰からも尊敬されないチームに成り下がり、2017年のチャンピオンリングは恥辱に塗れた。

もちろん歴史的に見ればアメリカにだってアジア系への差別的扱いに抗議する人たちは大勢いた。太平洋戦争の勃発に伴い日系人たちが強制的に収容所へと移住させられた(ドイツ系もイタリア系もそんな目に遭った人たちはいない)件は近年政府からも正式に謝罪があったわけだが、当時アラスカ州ジュノーではそんな日系人への扱いに抗議した人たちがいた。総代として地元の高校を卒業する予定だったジョン・タナカは予定より先に一人だけ卒業証明書が授与され、名誉ある卒業式には出席することができなかった。すると翌月に執り行われた卒業式では「ジョンのクラスメート達は、総代の名誉を以て卒業する筈だった級友、ひいては地元日系人達の不在を顕示するべく、空席の木製折り畳み椅子を会場に置いた」(空席の椅子の記念碑)という。そんな事件を記念して、2014年にジュノーにて記念碑が設置されている。ジュノーの街では帰ってきた日系人たちが地元民の配慮でまた元の場所で以前の生活を早期に再開できたそうだ。

高潔な行いというのは、人間はいつか差別に打ち克つことができるかもしれないという希望をもたらすものだ。希望はずっと希望のままかもしれない。でもそれがなくては人間の価値が根拠のないものとなってしまう。私たちには価値があり、だから権利は守られなければならず、甘やかされたIT長者でなくても誰もが人間一人分だけ尊重されなければならない。本当に心の底から野球を楽しめる日が来ることを願う。

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