中国の歴史 6

 朱元璋は息子の皇位を安定させるため、力をもった大臣たちの粛清に奔走した。しかし息子は若くして死ぬ。
 朱元璋が没すると孫の建文帝が即位。朱元璋の努力のかいなく、燕王が反乱を起こす。燕王は甥である建文帝を殺して即位、永楽帝となる。

 永楽帝の時代、明は興隆期を迎える。首都を北京に移し、紫禁城を建築。ラストエンペラーまで皇帝の住居となる。
 永楽帝は鄭和に航海を命じた。鄭和はインドを越え、サウジアラビア半島にいたり、さらにはアフリカにまで達している。

 西方からの訪問者も増えていた。1557年にはポルトガル人がマカオで永住権を得ている。以後、マカオを擁する広東は交易の場となる。
 明に関係を持った外国人は商人だけではない。1592年には豊臣秀吉が朝鮮に出兵。明はこれに援軍を派遣するも、すでにこの時期は衰退がはじまっており、日本との戦いで最後の活力を使い果たした。疲弊した明はあっけなく清に滅ぼされることとなる。

 宋を苦しめた金は女真族の国だった。女真族はその後、文殊菩薩を信仰するようになる。
 女真族はいくつかの部族にわかれていたが、ヌルハチがこれを統一。部族名を満洲とした。満洲は文殊から来た言葉である。州とつくので地名のようだが、部族の名前だ。

 満州族は明の支配から抜け出すため、独立戦争を起こす。
 明はポルトガルから輸入した紅夷大砲を駆使して満州族の侵攻に抵抗。ヌルハチは大砲に当たり、その怪我がもとで死ぬ。

 ヌルハチが死ぬと、息子のホンタイジは独立ではなく、明を滅ぼして覇権国家となること目指す。
 ホンタイジは志半ばで病没。3代目はの順治帝は幼かったため、ドルゴンが実権を握る。

 明は開祖の朱元璋が宦官の力を押さえていたが、永楽帝がその政策を廃止。歴代王朝のように宦官の毒に侵されることとなる。
 政治は乱れ、国力が衰退。豊臣秀吉との戦いによってさらに衰退の度を早める。

 清との戦争中にも反乱は起こる。反乱軍の李自成によって、明は滅ぼされる。
 ドルゴンは李自成をうって、中華帝国の主となる。

 順治帝の時代に明との戦争が終わり、そのあとに続く三代で清は最盛期を迎える。
 康熙帝の時代にはロシアとの紛争が勃発。ネルチンスク条約を結ぶ。
 中華思想は中原の覇者である皇帝が世界の頂点であり、それ以外の者が収める国を夷狄と見下す。ゆえに朝鮮や日本など、他国との交易も対等な通商ではなく、上の者が下の者に恩恵を与える、貢という形で認められていた。
 しかしネルチンスク条約はロシアと対等な立場で交わされた条約だ。これは世界が広がり、それに適応したことを意味する。

 康熙帝は柔軟な思考の持ち主だったが、彼一人だった。そのあとの皇帝は中華思想に戻り、これによって他国とたびたび問題が起きている。
 それでも思考を変えなかったのは、強かったからだ。中国は輸出することにより、大量の銀が入ってきていた。生活に必要なものは国内で賄うことができたゆえ、輸入の必要はなかったのだ。

 この環境が変わったのはアヘンの登場による。
 アヘンという新しいタイプの毒が、清王朝を蝕み始めていた。

 この時代で面白いのは女真族が統一され、満洲族という別の部族へ変容した部分だろう。こういったことは古代史によくあるが、やはり資料が少ないので詳しいことはわからない。
 女真族は満州族に生まれ変わっただけでなく、覇権国家の地位にまで上り詰めた。その過程を詳しく見れるのはこの時代の特色だろう。
 さらにはイギリスや日本という、外的の進行。思想の変化、革命による滅亡。民族の台頭から滅亡までの通史を見るにはうってつけの時代だ。

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