「論語」 金谷治訳註

 論語、言わずと知れた孔子の言行録だ。先日読んだ「孔子伝」の中で白川先生は、「孔子はただ論語のみに現れる」と書いていた。では、孔子とはどのような人間だったか。

 私の目に映ったのは、厳格な儒者ではなく、もっと悲しげな表情をした思想家だ。往々にして理論家は行動家たりえないが、孔子は行動家を夢見た理論家だったのではないだろうか。

 孔子が卑賤の生まれであることはまちがいと思う。幼いころは苦労したようだ。

 十五にして学に志す

 孔子は学問が好きだったのだろう。家業である葬儀の起源を古典に求め、その意味を探究した。形骸化していた様式に命を吹き込んだのだ。
 葬儀だけではない。冠婚葬祭、人との礼儀作法全般。それら全てが礼であり、孔子が学んだ対象だった。礼は集団に秩序をもたらし、個人の言動も整える。
 人は礼によって立つと何度も言っているので、人と獣を分ける境であったかもしれない。
 孔子はやがて教師として名声を高めていく。

 30にして立つ

 教師を中心とした教団は、春秋時代にはいくつもあったようだ。彼らは組織化され、国を越えて根を張っていた。有力者たちは権力争いにそういった教団を利用することもあったらしい。のちに黄巾や白蓮教といった組織が国を揺るがすこととなるが、その萌芽はこの時代からあったのかもしれない。
 孔子教団がその性格を一新するきっかけとなったのは子路の入門であったろう。子路はどこまでも行動家だった。理論家としては無邪気としてもよい大雑把さだったが、現実世界で勝つのは巧緻ではなく拙速だ。

 また、陽虎との接触も行われる。陽虎は魯のフィクサー的な存在だ。陽虎もまた、教師として成り上がった者らしく、相当な学識の持ち主であった。宮城谷氏の書く「孔丘」では、儒教における最重要徳目である仁は陽虎が生み出したことになっている。
 陽虎は孔子の影ともいえる存在だ。いや、当時の感覚からすれば陽虎の影が孔子だろうか。恐ろしいほどに似ているが、どこかで噛み合わず、決して相入れない存在。陽虎は孔子に仕えるよう迫るが、孔子は逃げる。

 孔子は古典を学ぶにつれ、古の君子への憧れが強くなっていったのだと思う。

 徳によって政治を行えば、北極星がその場にいながらにしてすべての星にかしずかれるように、自然と天下は治る。

 あまりにも杜撰な、理論とも呼べないたわごと。だがこれは孔子の妄想ではなく、孔子の見た君子の姿ではなかったか。それはだれか。周公旦かもしれないし、武王や文王かもしれない。それはわからない。けれど、孔子にとっての理想の君子とはそういう人間だった。
 君子への憧れは学べば学ぶほどに強くなり、孔子はそれを抑えることができなかった。現実の政治に対する憤りもあったろう。だが、孔子は自身が君子でないことを自覚していた。器用貧乏な自分は君子に値しないとぼやいている。

 孔子は弟子になりたいという人間を拒まなかった。それは教えたがりや寛容の他に、君子になりうる存在を探していたからではないか。アレクサンドロスに対するアリストテレスのように、君子になれずとも君子を育てることを夢見たからではないか。

 50にして天命を知る

 孔子は魯の国政に触れる機会を得たが、失脚して亡命。敗者としての自分の運命を、天命として受け入れたのが50代のことではなかったか。

 60にして耳従う

 亡命の中、孔子は一種の悟りを得る。それはまったき受動性だった。自分からは何もせず、ただ天命に従うのみ。

 70にして心の欲するところに従って、矩を越えず

 その位にあらざれば、その政を語らず。分際をわきまえ、分相応の生き方をする。それが孔子の得た悟りではないか。
 それでもまだ一筋の希望があった。顔回だ。
 顔回こそ、君子という夢を託せる者であったかもしれない。もっとも仁に近い顔回は君子になり得る存在かもしれない。だというのに、顔回は若くして死んでしなう。
 陽虎も子路もいなくなったあと、晩年の孔子は何を思ったのか。

 学びて時にこれを習う。また楽しからずや。

 ただ、学問をする喜びに浸っている、俗世を離れた老人。それが私の目に映った、孔子の最後の姿だ。

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