中華人民共和国前史 前半

 歴史家・司馬遷は黄帝の時代から史記を書き始めた。黄帝は天の意思の体現者、天子と呼ばれる。
 歴史上最初の天子である黄帝は、中国人の祖先と形容されるほどの存在である。

 黄帝から時代は下り、尭と舜があらわれる。この二人は儒教において最高の天子とされている。舜の時代からあとは悪くなるばかり。ゆえに儒教が盛んになると、中国の支配者層たちの間では復古主義的な考えが主流になった。

 さらに時代は下り、17世紀。天子の位は清の朝廷へと受け継がれていた。
 清は満州族という、中国東北部に住む部族の建てた国だ。満州というと地名に見えるが、これは文殊菩薩の意味で、彼らは文殊菩薩を信仰していたことから自分たちをこう呼んだ。

 建国当時、満州族は老若男女すべて軍に属していた。彼らは八つの部隊に分かれ、それぞれが旗を持っていたことから八旗軍と呼ばれた。
 八旗軍は満州族だけではない。モンゴル人や漢人も含まれており、特に漢人たちは満州八旗とは別に漢軍八旗を構成していた。

 明が滅びたあと、清が統一王朝となる。建国時に功あった八旗軍は特別階級となるが、これが彼らを堕落させた。
 時代が下るにつれ、八旗軍の質は下がるばかり。太平の世ならそれでもよかったが、平和は長く続かない。

 1851年、宗教結社のリーダー・洪秀全が反乱を起こす。太平天国の乱である。鎮圧に向かった八旗軍は連敗。清朝は危機的な状況に陥る。
 清を救ったのは二人の将軍。曽国藩と李鴻章だ。

 二人は国の軍を頼らず、個人的な繋がりで軍隊を作った。強い絆で結ばれた彼らは郷土を守る気概に燃え、太平軍に勝利。

 二人は清での最高官職である直隷総督に就任。曽国藩は脳溢血により死ぬが、李鴻章は長く権力を握った。

 李鴻章の持つ軍は北洋軍閥、そして北洋海軍だった。北洋軍は李鴻章の力の源泉であり、清にとっては最強の切り札だった。
 しかし日清戦争が勃発すると虎の子の北洋海軍はあっさりと日本海軍に敗れてしまう。清は敗戦国となり、李鴻章は一時的にせよ失脚した。

 1895年、日本と下関条約が結ばれる。屈辱的な調印だった。
 この年、康有為と梁啓超の二人が科挙に合格していた。二人が官吏となって最初に行った仕事が朝廷への上奏であった。
 二人が主張したのは、清の西洋化である。当時の清は西洋のものを極度に嫌い、鉄道が敷かれると風水が乱れるとの理由で湖に投げ入れるほどであった。
 西洋に対して寛容な人でも、西洋の技術は認めながらも、思想や政体は中国のほうがすぐれていると譲らなかった。和魂洋才ならぬ中体西用という考え方だ。
 康有為は思想・政治すら西洋に学ぶべきだと言った。

 康有為はもともと公羊学という学問を修めた人間だった。
「春秋」という古典がある。儒教の経典にもなるほど重要な書物だが、あまりに記述が簡潔すぎて素人が読んでも理解できない。そのため、春秋を学ぶには普通、本文ではなく解説書が読まれる。

 解説書は三つある。左氏伝、穀梁伝、そして公羊伝だ。
 それぞれ性格を異にするが、公羊伝の特徴は、時代はくだるにつれてよくなっていく、という考えだ。古代の聖王が作った政策も、時代がくだれば適さなくなる。ゆえに改革が必要だ。改革により、よりよい国へ変化していく。
 これは革命思想であり、支配者たちにはウケの悪い学派だった。

 若き皇帝は康有為の考えを認めるが、母の西太后が反対。康有為の関係者を逮捕した。しかし康有為と梁啓超は日本へ逃れることに成功する。
 康有為は国外に出てからは活力を失うが、梁啓超は精力的に活動を続け、革命思想を広めていった。

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