20 「常連」という概念について2

 1は夜学バーのホームページ「読みもの」に置いています。

 あの文章を読んだお客さんから、「常連とは常に連なる、だと書いてありましたけど、別の表現だと“常に連(つる)む”ですよね」と御所感をいただきました。

 つるむ、という言葉のニュアンスには、「いつも一緒にいる」ということ以上に、つるんでいる人たちがほぼ無条件に互いを受け入れ、肯定しあっているというのがあると思います。

 つるんでる相手なんだからこいつのことは否定しない、否定したとしてもそれは「冗談」というコミュニケーションの一種で、それすらもお互いに了承している、織り込み済みの行為。

 お互いに、相手の行為を、その人の行為であるというだけで「良し」としている状態。それが「つるむ」という言葉のニュアンスとしてある、と思います。

 つんつん つるんぶ つるんぶ つるん
(↑ショートコントでいうところの「ブリッジ」です)

 要するに「馴れ合い」という四文字で済むようなことなのですが、僕の悪癖でどうでもいい説明をだらだらと書いてしまいました。常連とは原則、馴れ合うものです。

 先日とあるお店に入って、「さっき久々にヨシから電話あってさあ。なんか帰ってきてるらしいよ。あ、マナブくんは今日来ないって。」みたいなことを店主が言うのを聞きました。
 ヨシ、マナブくん、そしてこの話を投げかけられた女性(女性でした)は、たぶんこのお店の「常連」なのです。
 常連は「常」連というくらいだから、常にお店に存在しています。その証拠に、たとえ肉体がそこにないときでも、こうして隙あらば名前が出てくるのです。

 るんるん るるんぶ るるんぶ るるん

 ↑の例で、常連は店の一部です。店主は、ヨシもマナブくんも知らないお客(僕)がいる前でも、平気で「ヨシ」とか「マナブ」とか言います。カウンターの置き物や、壁に貼ってあるポスターくらいに自然に存在しています。

 その時、僕はお店の一部なのでしょうか? それとも、常連を含んだ「お店」という空間に迷い込んできた、いち部外者なのでしょうか。

 

 いま僕は旅行中で、とある大きな地方都市におります。
 さっき行ってきた古い喫茶店は、ほぼ高齢者の「常連」で占められており、僕のような者が訪れるのは「イベント」のようでした。
 彼らは僕を「部外者」としながらも、だからこそ「お兄ちゃんどっからきたの?」だったり、「かわいい自転車ねえ」とか「東京からきたの、さすが垢抜けてるわねえ」とかっていうふうに、「ゲストキャラクター」として楽しんでくれた。
 田舎だから、と言ったらそれはそう。歓迎は警戒の裏返し。歓迎しつつ、素性をたずね、受け答えを洞察することによって、「危険がないかどうか」を確かめる。
 それを「ジロリ」という目だけで行うのと、「よくきてくれたわねえ!」という歓迎の形で行うのとでは、全然違う。後者のほうが当然、お互い気持ちがいい。

「常連」がそこに存在するのが問題なのではない。「常連」という「店の一部」が、「常連でない人」をどのように受け止めるか、というところに、そのお店の特色が出る。
「常につるむ」人たちだからこそ、塊になって一つの雰囲気をつくる。それがそのままお店の雰囲気となる。


 夜学バーには常連はいません(ということになっていますし、じっさい来店頻度が高すぎる人に対しては深刻なトーンで注意しております)。

 誰もが「ゲストキャラクター」であり、警戒とウラオモテの歓迎でもって、僕は迎えます。こちらには「常連」という仲間(味方)はいないので、お互いに孤独に、緊張感を持って毎度、向き合います。
 すると、お店の雰囲気は常に「ゲストキャラクター」たちが作っていく、ということになります。だから毎回、お店の雰囲気は違います。
 それが僕にとっては面白いです。僕はいろんなお店が好きなので、自分のお店も、いろんな顔を持っていたほうが嬉しいのです。

 一つのお店でいろんな味を楽しめるというのが理想。だからいろんな人に来てもらわないと困るのです。こんなものをわざわざ読んでいるあなた、絶対に来てください。ただしきわめてお行儀よく。



【定型文】
 2022年6月のみ更新されるnoteです。毎日17時に投稿され、一定時間経過後にTwitterで告知されます。(企画詳細
 この1ヶ月はお店の営業がほぼありませんが、僕(店主尾崎)以外の人が何かをやっていることもあるので、ぜひホームページ等をご確認ください。僕もいるかもしれません。
「ぐうたらする」ゆえ今月は6桁の赤字が見込まれております。よろしければ存在への対価というおねだりページをご覧くださいませ。あるいはなんらかの方法で。

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