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あんなに嫌がっていた「周年イベント」をやる理由(2024/05/11土 17~29時開催)


周年イベントを嫌がっていた理由

 2017年4月1日、湯島(上野)に開店した夜学バーは現在(2024年)に至るまで一度も「周年イベント」をやっておりません。
 その理由は「嫌だから」だったのですが、まずはそれについてご説明します。

「常連」システムの拒絶

 夜学バーの独特さに「常連はいない」というのがあります。というか、「常連」という概念そのものを否定しております。

「やっぱり常連さんが多いんですか?」と初めてのお客さんにはよく問われます。
「常連はいません。」と答えます。
「それでやっていけるんですか?」お客さんは驚きます。

 一般に、10席に満たない小さなバーでは「毎日のように来る太客(ふときゃく)を確保する」ことが「やっていける」ためには必要と考えられています。
 たとえば年間600万円売り上げるには2万円×300日間という計算ができますが、毎日きて3000円払ってくれるお客が6~7人いれば成り立つわけです。週に三度が13~14人、週に一度が40人でも構いません。
 夜学バーは「小学生から高齢者まで」をメインターゲットにしておりますので、平均の客単価を2000円と想定し、「2000円×月に200人×12ヶ月」でおおよそ500万円を目標として開店しました。達成できているかは今はおいておきましょう。
 ポイントはこの「200人」という数字。「延べ」ではなく「実数(ユニークユーザ数)」でイメージしているのです。つまり「毎日のようにくるお客が10人」ではなくて「月に一度くるお客が200人」と。
 すると、いわゆる「客層」が分厚くなり、彩りや豊かさも出てきます。よく「どういうお客さんが多いんですか?」と問われますが、まともには答えられません。世代も住んでいるところも、こだわっていることも背負っているものも何もかもばらばら。ただやはり「夜学バーを好きなような人たち」なので、なんとなく「こういう感じ」というのはぼんやりとあります。「発言する前に一呼吸おく人」というような言い方はたまにします。

 夜学バーの理想は「来るたびに違う人がいるお店」。
「いつも同じ人がいるお店」の安心感も僕は好きなのですが、あえて前者を選んでいます。このお店のテーマが「学び」であって、それを「いろんな人との言内外の交流」によって実現しようとしているからです。
「いろんな人」はいつでも大いに刺激をくれます。お店に立つ身としても退屈しません。目まぐるしく切り替わる、まったくランダムな時間割。

 もちろん本当に「月に一度くる」人ばかりではなく、「月に数度くる」という方もおられますし、時には「週に数度」ということもあります。しかし時期によって「月に一度もこない」ということだってあります。その時に「最近〇〇さん見ないねえ」といった声が上がらないというのが、「常連」という概念がないということなのだと思います。
 年に数度とか、数年に一度くるようなお客もたくさんいます。それは「イレギュラー」ではなく「織り込み済み」。月に200人というのは平均の話で、「週に一度」もいれば「年に一度」もあり、それで実数が「200人」くらいあらば、この規模のお店ならちょうどよく多様性が保たれるだろうと。

 周年イベントをやるとしたら、そういった人たちが一同に会す場となるでしょう。想像するとめちゃくちゃ面白いのですが、ずっと危惧していたのはそこに来た人が「常連」と認定され、一気にコミュニティ化が進んでしまうこと。
 周年イベントは「夜学バーというコミュニティに入る通過儀礼」という機能を発揮しかねません。それは花見でもバーベキューでも同じこと。開店から7年間、そういった催しは一切しませんでした。

コミュニティ化の拒絶

 イベントは「来た人」と「来なかった人」にお客を分けます。前者は「常連(コミュニティの成員)」とされ、後者は「その埒外」とされる。いろんなお店を見ていると、なんとなくそんな感じがするのです。僕もたまにお誘いをいただいて参加するのですが、常連ではない(と自分では思っているし実際そんなに通えていないことが多い)ので、知っている人も少なく、根暗ですので積極的に話しかけることもできず、「針のむしろ」のようになることがわりとあります。(でも楽しいので誘ってもらえたら喜んで行きます。)

 なぜ「常連」という概念を自分のお店から排除しようと考えたかというと、一つの小さなお店の中で、人間が二種類に分断(分類)されてしまうのがつらいからです。
 誤解なきよう記しておきますが、「常連」という概念(感覚)が存在しているお店が嫌いだという話ではありません。その中に好きなお店は無数にありますし――なんせほとんどのお店が「そう」ですので――はたから見れば僕だってそのお店の常連とみなされることもあるでしょう。ただ、まことに正直に申し上げますと、そういった感覚の存在に居心地の悪さを常に感じているのも事実です。原っぱや児童館で遊ぶときのように、「いつの間にか知らない子も一緒に遊んでた」みたいなほうが心地良いのです。

 コミュニティ化するということは、「成員」と「それ以外」に分かれるということ。LINEグループを作ってしまったら、そこにウチとソトができる。便利である一方で、疎外感やさみしさも生むものです。

 お店に入ると、ほかのお客さんについて「常連か、そうでないか」を見抜こうとする人は思った以上に多いものです。夜学バーでも「常連さんですか?」とか「よく来られるんですか?」という問いかけは頻繁に耳にします。そんなことを聞いてどうするんだろう?と僕は思いますが、話しかけるきっかけ(質問のための質問)として万能となぜか信じられているようです。
 穿った見方かもしれませんが、そこには「常連のほうが偉い」という謎の階層感覚があるように思えます。「この人は自分より偉いか、偉いならどのくらい偉いのか」を知っておいたほうが上手く立ち回れるという直観から、同席した人の「常連度」をやたら気にするのではないか。
 小さなお店というのはたいていコミュニティ化しているもので、コミュニティには階層がつきものだから、まずそこを気にしてくださるのでしょう。実にありがたいお心遣いではあるのですが、飲み屋に来てまで「社会」やんなくていいよ、と僕は思うので、そういう感覚は排除していきたいのです。

 ちなみに夜学バーでは時おり次のようなやりとりが起きます。「常連さんですか?」「いえ初めてです。」「えー! すごく慣れてる方かと。」
 このようなことが起こると、「してやったり」と思います。何かの本にバーテンダーの心得として「一見は常連のように、常連は一見のように(接客すべし)」と書いてあったのですが、それがうまくやれていたという証拠。
 ただこの箴言は「常連」という概念を前提としたものなので、僕なりに言い換えると「来店頻度や使ったお金で人間を差別するのはさもしい」とか「仲の良さで人を差別するのは愚かしい」とでもなります。
 軽口のようになってしまいましたが、僕が「常連」という概念の導入を拒絶する理由はここに尽きます。みんなが対等であるという仮定から始めたい。対等の実現は難しいと言われますが、せめてこの場ではまずそう仮定して進めていきたいのです。関係ないようですが茶の湯とはそういうものだと理解しています。

非日常は人それぞれ

 周年イベントをしてこなかったのは「常連」や「コミュニティ」という概念を遠ざけたかったからだと書きました。もう一つ理由があるとしたら、「非日常」をお店側が用意することに抵抗があったからです。この話はすぐ終わります。

 昼の人間にとって夜のお店とは非日常のもの。日常となってしまったらその人はもう「夜の世界の住人」です。(この用語は夜回り先生こと水谷修さんから借りてきました。)
 夜学バーのお客さんの大半は「昼の世界の住人」なので、「今日は非日常なことをするぞ!」と意気込んで来てくださることが多いと思います。そのタイミングはその人の自由。しかし「イベント」は日時を指定します。その人の気分や事情にかかわらず、「この日です」と指定されるのがイベント。周年は日時が決まっているゆえ、なおさら。
 そもそも「イベント」は非日常に属するものなので、「非日常の押しつけ」のようになりかねない。そしてイベント、特に周年イベントというものは、「行きたいのに行けなかった」場合に罪悪感を抱いたりしてしまうようなものでもあります。お誕生日会みたいなもので。
 周年イベントは「行かなきゃ」というプレッシャーと、「行けなかった」という罪悪感を生み出します。周年なんかやらなければ誰も悲しみません。
 お店というのは「行きたいときに行く」ものなのに、周年となると「祝ってあげなきゃ」とか「祝いたい」が出てきて、お店に行くことが義務のようになります。少なくとも、そういう人はけっこういると思います。
 そしてこの感情は当然、「帰属意識」とも深く関わります。「周年に行かなかったらコミュニティの成員とはみなされないのではないか?」という不安。「常連としての責務を果たさなければ」という謎の使命感。「仲間ハズレになりたくない!」という切なる願い……。
 そういった感覚は夜学バーにとって非常に邪魔なので、これを導きかねない類の「イベント」は一切排除してきました。
 気楽に、自由に足を運べて、そしてお店の中ではほどよい緊張感と不確実性のもと思考を楽しみ、学ぶ。そういうお店にしておきたいのです。

周年イベントを(いまさら)開く理由

 そのようなわけで「周年イベントはやらない!」と主張してきた夜学バー。しかしなぜいまさらになって「やる!」と言い出したのでしょう。

人間への理解がすすんできた

 夜学バーを7年間運営することによって、「人」と「店」についての理解が深まってきました。
 人間は(あえて巨大主語で言い切ってみます)口実がないと動かないものです。
「月に一度が200人」というのは、どうもここを無視した、あるいは軽視した発想だったようなのです。
 おそらく「月に一度くらい行きたい」と思っている人は、年に一度も行かないのです。口実がないから。
 口実がないというのは、「行く理由がない」ということです。これは大いなる誤算でした。僕は、夜学バーというのは「行く理由のある(すばらしい)お店」だと思っていたのですが、多くの夜学バーファンにとって、夜学バーとは「存在している価値のある(すばらしい)お店」らしいのです。
 その空間が大好きで、存在している価値を大いに認めているからといって、人はそこには行かないのです。
 多くの人にとって、お店に行く行かないを決めるのは「口実」か「習慣」だと思います。(遠方の人やごく忙しい人にとっては「機会」というのもありますが、「口実」に近いものでもあるのでここでは置いておきます。) 
 実際におおよそ月に一度以上おいでくださっている方は、夜学バーにくることが「習慣」となっているのだと思います。
「習慣」づいていない場合は、「口実」が必要です。

「口実」とはネガティブなニュアンスで使っているのではなく、「行く理由やついで」くらいのこと。
 たまたま上野に行ったから、というのは「口実(あるいは機会)」。
 夜学バーがSNSに「50年前のレミーマルタンが1000円で飲めます」と書いた。それを見て「飲みたい!」と思って足を運んだ。これも「口実」。
 Sexy Zoneがtimeleszと名を変え、新メンバーオーディションの告知をした。「ジャッキーさん(僕のこと)の意見を聞きたい!」と思って夜学バーに行った。これもここでいう「口実」にあたります。

 ただ、「ジャッキーさんの意見を聞きたい!」と思ったとしても、相当その思いが強くなければ実際に足は運ばないでしょう。DMなどで聞く手もありますし、「そのうちホームページに書かれるかも」と保留する可能性もあります。もっと単純に「ジャッキーさんに会いたい!」と思ってくれた人がいたとしても、ガチ恋なみの強い欲動でない限りは、思うだけで終わるのがほとんどだと思います。
 人にわざわざ足を運んでもらう、というのは実際のところ、相当大変なことなのです。わかってはいましたが、なかなか実感としてはつかめないものでした。7年やってようやく「降参!」となりました。それが今です。

周年は巨大な口実である(あたりまえ)

 人は(店は)なぜ周年イベントをやるのか?
「口実」を作り出すためなのですね。
 当たり前だろ、と突っ込まないでください。そんなこと僕だってずーーーっと昔からわかっておりました。わかっておりましたが、わかっておらんかったのです。それがどれだけ重大なことか。
 口実というものを作り出すのが、いかに難しいことか。

「周年」というのは、年に一度自動的に「口実」を吐き出してくれる、悪魔の発明だったのですね。一度食べたらやめられない、麻薬のようなものなのだと思います。たぶん。よく7年も我慢できたものです。

 あの手この手で「口実」を生み出そうと頑張ってきたつもりではあります。行けば必ず何かしらの実りがあるすばらしいお店、そう思ってくださる方はきっと数多けれど、なかなかそれは「口実」とならない。
 いろんな地方に出向き、すてきな人たちにたくさん出会って、「東京に行ったら寄りますね!」といった言葉を数え切れないくらいいただいた。実際にものすごく多くの方においでいただいている。しかしまだまだなのである。「東京に行ったら夜学バーに行こう」ではなく「夜学バーに行くために東京に行こう」と思ってもらえるくらいじゃないと。つまり「店自体が口実」というレベルに達しないといけない。
「上野に行ったら夜学バーに行こう」ではなく「夜学バーに行くために上野に行こう」でなければならない、ということ。そのように考えてくださっている方はとても多く、本当に心からありがたい、嬉しい思いでいっぱいであります。ただ「月に一度を200人」をしっかりと確保、維持していくためには、もうちょっとだけ数がほしいのです。

 年に一度でも「口実」が発生して、実際に足を運んだら、そこから「習慣」になるかもしれないし、新たな「口実」に気づく可能性も上がるはず。
「何年も行ってなかったけど、久々に行ってみたらクセづいちゃって、最近は月一くらいで行ってるよ」みたいなことがあるかもしれない。「何年もご無沙汰してるのでなんとなく気まずくて行ってない……」とか「行ってみたいけどタイミングを見失ってる……」とか、いろいろと二の足を踏む事情はあると思いますが、巨大な「口実」はすべてを突破してくれます。

 一時閉店したときはそれを口実に本当にさまざまな人が来てくださいました。5年ぶり、10年ぶり、15年ぶり、それ以上会っていない人もおりました。「初めて」という方も当然たくさんいらっしゃいました。それに味を占めたというのは正直大いにあります。
「口実ってこんなにすごいんだ」と感動したのです。ずっと気まずかったかつての親友と仲直りできたりしたし。お祭りとか儀式ってのもこういうことのためにあるんだろうなとか。お店の休止中にゴールデン街の古巣のお店で凱旋営業してみたときも、思いがけない再会や出会いが多々あった。
 結局、人類が長い時間をかけて作り出してきたものには強度があるってことなんですね。かしこい僕は当然とっくにわかっていたはずなのですが、ようやく真に実感できているような気がします。

夜学バーへの理解もすすんできた

 それはそうとして、この7年間、周年イベントをやってこなかったことに後悔はありません。自分もお店も未成熟だったから。半端に「周年」をやったりしていたら取り返しのつかないことになっていたかも。
 今は、お客さんたちが「夜学バーとはどんな場であるか」をかなり理解してくれているし、これからいらっしゃる方々(切に切に、おいでください大歓迎です)にもけっこううまく示すことができるようになっているはず。周年イベントをやったからって必ずしも「常連」概念が生まれたりコミュニティ化が進んでしまうわけではないし、ならないように工夫することもできる。その自信があるから胸を張って「やる!」と言えます。

なぜ「7.11周年」なのか

 周年は巨大な「口実」である、というのが僕の今の考え。口実をあまり四角四面に考えることもないでしょう。4月1日に開店したからといって、その日にやらなければならないというわけではありません。
 逆に言うと、「7.11周年」というわけのわからない設定には「これは口実なので、日付はどうでもいいのだ」という思想も込められております。夜学バーは口実としてのお祭りがやりたいだけなのです。「◯年経ったから祝います」という受動的な姿勢ではなくて、「祝いたいので適当に日時を設定しますね!」という能動的な態度なのです。

 ちなみに、7.11のテンは小数点のテン。一年を365日とすると0.1年は36.5日、0.01年は3.65日。すなわち7.11年は「7年と40.15日」という計算になります。
 4月1日から数えて40日後は5月11日なので、その日に7.11周年としてイベントを催す、と。
 では7.11という数字にはなんのこだわりもないのかといえばさにあらず、僕が15歳のときにホームページを開設したのが7月11日で、以来毎年人知れず祝っております。思い入れのある日付といえば、誕生日である11月1日に並んでこの日を僕はまず挙げます。「7.11周年をやりたいな」と先に思って、それから計算してみたらちょうど土曜日だったので「やろう!」と決意したという順序。

コミュニティ化しない「周年」のやり方

 バーやスナックの周年イベントの多くは「飲み放題〇〇円」とすることが多いようですが、これは「コミュニティ」と非常に相性が良いやり方です。お店をコミュニティ化させたいなら飲み放題にするべきだと思います。
 理由はいろいろありますが、主には「滞在時間の長さ」。飲み放題ということは「一杯だけ飲んで帰る」ということを前提としておりません。「ゆっくりしていってね」というメッセージです。
 滞在時間が長いと「常連」同士が顔を合わせる確率が上がり、関わりの深くなかった人や初対面の相手ともじっくり話せて、コミュニティの強度が高まっていきます。要するに「親睦会」っぽくなるのです。お酒も互いに注ぎあったりするでしょう。

 それで夜学バーの7.11周年では「木戸銭無料(チャージフリー)」のうえ「都度払い(キャッシュオンデリバリー)」とします。

 通常は木戸銭(席料)として1000円いただいておりますが、それは「滞在時間を長く見積もっている」から。夜学バーは5時間でも8時間でもどうぞ学んでいってくださいという姿勢なので、ノーチャージだとあまりに儲からず、タイムチャージだとお金がかかりすぎます。「木戸銭1000円」はその中間をとったつもり。ちなみに奨学生は500円、小中高生等以下は無料という特例もあります。詳しくはホームページへ。
 周年では逆に、「滞在時間を短く見積もっている」わけです。「サクッと祝ってすぐ帰る」もOK。ノーチャージなら15分くらいで帰っても「損した感」がほとんどないはず。もちろん長くいてもらってもいいのですが、狭い店なのであまりに人が多くなると大変。
 そこで都度払い。「混んできたからいったん出る」がしやすい。お代はすでに払ってあるので何も言わずスッと出ることも可能。戻ってきたらまたキャッシュオンでなにか頼んでいただければいいし、べつに戻らなくてもいい。「なんかだるいから帰る」とかもできます。
 想定滞在時間が短いので、混みすぎる可能性も下がるし、良くも悪くも「親睦会」にはなりにくい。時間も17時から29時と幅広くとってあるので、誰とどのくらい顔を合わせるかは運でしかありません。

「お客どうしで仲良くしてはいけない」ということではなく、僕が考えているのはむしろその逆。「コミュニティを介さずに仲良くなる」ということが目論見の中心にあります。
 先に原っぱとか児童館の例を出しましたが、そっちのほうが原始的で僕の好みです。

「お店や人が好きだから」

 7.11周年には、とにかくみなさまおいでください。これを読んでいる方、当日の都合がむりやりにでもつけられるなら、5分でいいからきてください。費用は上野(湯島)までの交通費と500円からのドリンク代のみです。
 どうしても行けない、という方は、翌日の日曜も14時から24時くらいまで「後夜祭」としてお店を開けております、ぜひ。余っていれば粗品もお渡しします。

 周年だからとてシャンパンをおろさなきゃとか、そういうノリは特にありません。ただ用意はしてありますので、数万円出せそうな人はぜひどうぞ。理性圧勝ゆえ7年間一度もなかった「ジャッキーさんが酔い潰れる」という事態を見たい、作り出したいという人は貢献してくだされば。
 凍ったテキーラやコカボム、クライナーの類はありません。もしそういうことがしたいのであれば、僕の大好きな激レア終売バーボン「ヴァージン」をですね、一緒に飲むでも、僕にだけ飲ませるでも。これはハーフなら1000円から。いちばん高いのはワンショット6000円。一気ではなくちびちびと。お水といっしょに。

 動員予定人数は100名としております。1時間に8人くらい来る計算です。忙しくなるはずなので、オペレーションをかなり工夫するつもり。店内もいつもとはちょっと違うふうになるでしょう。どう回していくのか、興味ある方は見に来てください。
 100名と言っておいて実現しないとさみしいですから、無理して、5分、どうかひとつ。僕のために、またお店のために。ひいてはこの世の中をよくするために。

「口実」の話に戻りますが、「周年だから行く」というのは果たして口実になるのでしょうか? なんで周年だから行かなきゃいけないのか、そこに明快な理屈などありません。ただ僕が、お店が(夜学バーが)「周年だから来てほしい」と言っているので、みなさんは来てくださるのです。「来てほしい」「なら行く」という単純な話です。
 すなわち、なぜ「周年だから行く」という摩訶不思議な論理(?)が成り立ってしまうのかといえば、その人が、つまりあなた様が、そのお店とか、そのお店をやっている人のことが好きだからで、それ以外の理由はたぶん、ろくなものではありません。好きだと思ったら、おいでください。来られない方は電報または何かを! 電話は0358264529、住所は110‐0005 台東区上野2‐4‐3 池之端すきやビル401。現金書留大歓迎!

まとめ 7.11周年記念営業についての解説

 と卑俗な感じになったところで、まとめます。

イベントの詳細

夜学バー7.11周年記念営業
令和6(2024)年5月11日(土)
17時から29時(後夜祭は翌日14時から24時)
木戸銭(席料)無料 会計は都度払い
食べ物の持込み、飲み物の進呈 歓迎
電報、貢物など大歓迎(色々届いたら楽しい)
来店予定人数 100名
(そのぶんだけ粗品配ります)
初めての方、特に大歓迎いたします

なぜ「来年予定人数は100人」と明言するのか

「口実」のためです。「100人のうちの1人になる」というのは口実になり得ると思ったのです。
 周年と聞くと、多くの人が「自分に行く資格があるのか」と自問するようです。僕もそのクチなのでよくわかります。けどまあそんなくだらない(答えの出ない)問いはゴミ箱に捨てちゃいましょう。とにかく「100人」っていうアテのない目標を僕は掲げちゃったんだから、資格があろうがなかろうが来てもらわないと困るんですよ。
「一度も行ったことないのに」とか「しばらく顔を出してないから」みたいな遠慮は無用です。100人のうちの1人になってください。そうでないと達成できません。なぜ達成したいのか? べつに達成したいわけではないのですが、あなたに来てほしいから達成したいふりをしてみているのです。
 まだ来たことのないあなたは僕にとって(店にとって)未知数で、ワクワクする存在です。ご自身の自己評価は関係ありません。僕があなたをどう思うかも問題ではありません。ただ夜学バーに誰が来て何が起こるのかということにだけ興味があって、僕はそこにひたすらワクワクします。
 しばらくお会いしていないあなたも同じです。会わなければ会わないほど「未知度」がふたたび上昇していきます。僕はそこを楽しみに再会を待っています。「どの面下げて来た」なんて思いはしません。むろんその場で悪意を向けてくるなら別ですが。

 ちなみに「100人」という数字の実現可能性は微妙です。夜学バーの潜在的な顧客数を考えれば不可能ではないはずなのですが、ちょっとでも「遠慮」されてしまったら絶対に無理です。これまでの経験上、夜学バーのお客さん(あるいは夜学バーに興味を持つような人)はかなり遠慮がちです。
 じつは周年の日や誕生日の日には、イベントこそしないもののどこかにこっそり「この日○周年です」とか「この日お誕生日です」とたいていは書いてきました。そういう日の来客数は一桁であることがほとんどです。手元のデータを紐解きますと2023年の周年当日は土曜日で11名、うち5名は夜中にやってきた初来店(ほぼ通りすがり)の方々なので、その偶然がなければ6名だったということです。2022年の周年当日は金曜日に15時から夜中までやって7名。2021年は木曜の昼、たぶん緊急事態宣言かなんかなので仕方ないですが3名。2020年も3名。2019年は当日休みかなんかで翌日が8名。その前はデータ出てきませんが普段と変わらないか、むしろ少ないくらいの日が多かった印象。ちなみに2024年も当日休みで翌日がたぶん2名。お誕生日もまあ似たようなもので、100名にはほど遠い。
 どうも僕の考えていることは誤解して伝わってきたようで、「周年や誕生日を祝うと怒られそう」とか「記念日に夜学バー行く奴は二流」といった誤ったイメージがあるようなのです(憤怒)。これについてはいつかちゃんと書かなきゃとずっと思っていて、その積年の想いがこのような長文を生んでおるわけです。
 今回ばかりは、遠慮も逆張りもしないで、何も考えずに来てくださいね。本当に。何も要りません。来てくれることが嬉しいのです。心から。

 繰り返しましょう。たとえばどんなに僕から嫌われている人(たいていはその方がそう思い込んでしまっているだけだと思いますが)であっても、来てくれたら僕は感謝します。「100人のうちの1人」になってくれるわけですから。
 実のところ僕はふだん、人間を数字に変換してものを考える悪趣味など持っていないのですが、「あなたに会いたいがゆえ」あえて言っております。ご理解ください。

なぜ「木戸銭無料(=チャージなし)の都度払い」なのか

 これはすでに書きました。コミュニティ化を防ぐため。または、店内の流動性を高めるためです。
「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」と小沢健二さんの『流動体について』という歌にあって、夜学バーは開店当初からこれをテーマにしています。
 歌詞は「躍動する流動体」と続きます。コミュニティとは、僕にとっては流動体と正反対のもの。ぐるぐる目まぐるしく変わる12時間を構想しています。20人や30人ではなく「100人」という想定もそのために必要だと思っております。
 単純に、人がたくさんいれば「どれが成員でどれがそうでないか」もわからなくなり、「とにかく素敵そうな人が何人もいた」という印象だけが残るのではないかと思うのです。おっと、こんなことを書くと「自分は素敵ではないから」と反射的に考えてしまう人がいるので、繰り返します。素敵だろうがなんだろうが、ともかく100人のうちの1人になってください。お願いします。

結局、誰に来てほしいのか

 こんなもんを読んでくださる人なら誰でもいいです、ほんとに。

「みんなに会いたい」以外に望むことはないし、それ以外に夜学バーの存在意義を確かめる方法はない。そして「みんな」という言葉の中に誰が入っているかは、僕(店)が決めることではない。

 以上です。よろしくお願いいたします。

7.11周年記念営業ポスター(店頭に掲示)

 顔が見たい人はインスタでもどうぞ


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