01「夜学バーってなんですか?」

 やはり最初はこれ。「夜学バーってなんですか?」「夜学ってどういう意味ですか?」よくきかれます。

 簡単な答えとしては、バーです。主として夜に営業し、お酒をふくむ飲みものを提供し、お客はカウンター席に座ります。ぐいっと曲がったL字型のカウンターひとつで、座席は8席。がんばれば10名ちょっとは入れます。その場にいる人たちは大抵の場合、お話や目線などなんらかの交流を持ちます。

 でもそういうことじゃないですよね。
 なんでそういうお店に、「夜学」なんて言葉をつけているのか。


 20歳のとき、ネットで知り合ったお姉さんに連れていかれて、初めてバーに行きました。そこには音楽とか映画とか漫画とか、いわゆる「カルチャー」的なものの好きな人たちが集まっていました。みな僕よりも10〜30歳ほど年上で、だいたいみんな小沢健二さん(ミュージシャン、1968〜)とか渋谷系と呼ばれる音楽が好きでした。僕もそのあたりにはとても詳しかったので、「すごいのがやってきた!」とチヤホヤされたものです。「若いのによくぞまあ」が年上にモテるのはいつの時代も変わりません。

 僕はそのお店に通うようになり、知らなかったことをたくさん知りました。いつも誰かが何かしら「カルチャー的なこと」を話しているのです。会うたびにCDを大量に貸してくださる方もいました。僕の文化的知見はモクモクと膨らんでいきました。
 それだけではなく、その場での会話はどこか知的なのです。ユーモアとウィットに富み、時にとんでもない、いわゆる「電波には乗せられない」ような話題に振れつつも、決して下品にはならない、芸術的なバランス感覚によって運営されていた場だったのです。
 バランス。そこにいる人たちが、それぞれの知見と思考を持ち寄って、混ざり合い、ハーモニーを奏で、結果として「面白い話」に昇華していくような、奇跡的な時間。誰ひとり欠けても実現しないような。誰かがぽろりとこぼした一言が、どんな方向にでも転がっていって、最後には思わぬ奇抜なゴールが決まる。「そうきたか!」「こりゃ一本とられた!」をみんなで作り上げていくような。そのメンバーは行くたびに毎回違って、それなのにほとんど毎回、似たような美しい体験を得ることができる。
 20歳の僕がバーで学んだ最大のことは、知識ではなくて、この感覚でした。

「バーってこんなに楽しく、ためになるものなのか」と思った僕は、別のバーにも行ってみました。しかし、そこでは「カルチャー的な話」は特に出ません。食べものと飲みものの話、土地(出身地や旅行先)の話、あそこのビルにこんなお店が入ったといった、いわゆる世間話。かんたんな時事ネタ。カジュアルなお店では下ネタや異性の好みの話などがよく上がります。
 ああそうか、そりゃそうだ。僕が最初に行ったあのお店は「カルチャー的なお店」なのだ。だから「カルチャー的な話」にもなるわけだ。そう思って、「カルチャーそうなお店」を狙って入るようになりました。
 たしかに、「カルチャー的な話」はそこにありました。しかし、その多くは「店主の興味の範囲内」に収まるものだったり、「誰かが一方的に好きなことについて語り続ける」だったり。僕が例のお店で感動したような「ユーモアとウィット」「複数の人が場を共有する楽しさ」といったものは、なかなか見つけられませんでした。だいたいは「店主とお客」ないし「お客とお客」の一対一で、閉じた関係になりがちだったのです。

 なぜなのだ? 僕は考えます。まずは、店主の人柄と才覚によるものだったでしょう。あのお店の主は「場をつくる」ということにあまりにも長けていました。そしてトラブルやリスクを恐れませんでした。
 お客さんと対等に話し、時に深く受け入れたり、やんわりと拒絶したりもする。一つの話題が出ればほかのお客をどんどん巻き込んで、「同じ場を共有する」「一緒に場をつくり上げる」ということへ自然と導いていく。
 それと似たようなことをできる、またはしたいと思うバーはほとんどないようです。おそらく、トラブルの元だからです。お客の内面に踏み込んだり、お客とお客をつなげたりすると、「問題」が起こりやすい。しかも別に、それでお金が儲かるということもない。むしろ話に没頭すると「酒を飲む」ことがメインじゃなくなり、機会損失にすらなりかねません。頭を使う会話に、お酒はむしろ邪魔という見方さえあります。実際、僕の通っていたお店ではお客さんの何割かはソフトドリンクしか飲みませんでしたし、僕もたいていコーヒーばかり頼んでいました。チャージもなく客単価は1000円くらいだったのではないでしょうか。

 そういえばそのお店は、そもそも「バー」ではなかったのです。店名には「〇〇喫茶」というふうに喫茶の文字があり、バーのバの字もありませんでした。でも世間的にはそこは、「夜に営業して、お酒を出す、カウンターだけのお店」で、どっからどう見ても絶対に「バー」と呼ばれる空間なのです。

 僕はそういった「バー」という形式に強く惹かれていました。夜、ドリンク、カウンター。そのお店もL字(鋭角なのでより正確にはV字)のカウンターで、横並びではなく、お客さん同士の目がよく合います。構造的に「みんなで一つの場を共有する」がやりやすい。
 でも、世間にはその特性を彼のように活かしているバーはほとんどありません。人と人とをむしろ「分断」するか、もしくはコミュニティ化(界隈化)して、いわゆる「常連」ばかりで固まるか、という2種類にほぼ分かれます。
 誰もが自由に出入りできて、そのメンバーによって千変万化する、それでいて知性や品を決して失わない、そういう素敵な場をつくるポテンシャルが、「バー」という形式にあると僕は信じます。

 しかしその実現はあまりにも難しく、かつ儲からない。僕はかのお店で本当にたくさんのことを学ばせていただき、心から感謝しているのですが、それと似たお店はなかなか見つかりません。そのお店自体も、今はもうありません。(あるのですが全く違うお店です。)

 バーで学べることはたくさんあります。
 知識も増やせるし、自分とは違う人の意見や考え方に触れることもできます。そして何より、「人と仲良くする」とか「楽しく遊ぶ」ということを練習することができます。これが一番の意義だと思っています。
 子供たちにとっての公園、原っぱ、空き地と同じです。

 そういう空間が世の中には必要だ、っていうか僕はそういう場所にずっといたい! ということで作ったのが、この「夜学バー」です。(説明になっているでしょうか?)


 夜学バーは、小学生くらいから老人まで、ほぼ年齢を問わず学べる場所だと自負しています。就学前の子であっても、おぼろげな記憶がきっとその成長に与することがあると信じてもいます。
 それは、根本にある願い(機能)が、「人と仲良くする」とか「楽しく遊ぶ」ということだからです。
 それは「誰とでも仲良くしなければならない」とか「誰とでも楽しく遊ばなければならない」という意味ではありません。誰かと仲良くするために、楽しく遊ぶためには、どうしたらいいのだろうか? を考え、実践し、時に失敗し、「この人とは楽しく遊ぶことができない」と訣別することもあります。
 それでも世の中でともに暮らす以上、手を振るくらいは。仲良くはできないかもしれないけど、憎しみ合う必要もない。そう思えるようになるのも、学びの一つの結晶です。

 綺麗事でなく、残酷さや悲しみをも含んだ場。近所の公園だって、学校だって、考えてみればそうだったと思います。


 なぜ「夜」なのかというのもあるのですが、それはまた別の機会に……。


【定型文】
 2022年6月のみ更新されるnoteです。毎日17時に投稿され、一定時間経過後にTwitterで告知されます。(企画詳細
 この1ヶ月はお店の営業がほぼありませんが、僕(店主尾崎)以外の人が何かをやっていることもあるので、ぜひホームページ等をご確認ください。僕もひょっこりいるかもしれません。
「ぐうたらする」ゆえ今月は確実に6桁の赤字が見込まれております。よろしければ存在への対価というおねだりページをご覧くださいませ。あるいはなんらかの方法で。

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