08 なんてことない会話

「お近くですか?」
「お仕事帰りですか?」

 バーとか、小さな飲食店で頻出の質問。何万回されたかわかりません(過大報告)。こういう「なんてことないつもりの質問」が、相手に与える重圧は大きい、と僕は思います。
 しかしこれがおそらく日本の至るところで、毎日それこそ何万回何百万回も発されていて、それがきっと何十年も繰り返されています。ということは、「別に重圧には感じない」という人もかなり多いのでしょうし、むしろ「こういうなんてことない質問からお話を始めてくれて嬉しかった」と感じる人もたくさんいるでしょう。

 ただ確実に、こういうのを重たく感じる人はいます。少なくともここに一人。僕はそうです。この話を人にすると、ほぼ確実に「ワカルワカルー」と言ってもらえますので、おそらく僕一人ではないと思います。

「お近くですか?」と言われると、とにかく何かを答えなくてはならない、とまずパニック状態になります。しかしなんて言えばいいのか。どのくらいの距離を「近い」と言うのか。家は遠いが職場は近いという場合、近いと言うべきか遠いと言うべきか。「家は遠いんですけど職場が近くて」と答えればいいのか。でも「遠い」と言ったって、その遠さの基準は人によって違うので、「家は〇〇区なんですけど職場の最寄駅が〇〇駅なもので」とか言ったほうがいいのかもしれない。とかまあ要するに、考えすぎてしまうわけです。

 そもそも、自分にまつわる情報を他人に明かすこと自体が個人的にはけっこうしんどい。「独身ですか?」とか。「彼女はいるの?」とか。ほっとくと「お仕事は?」「年齢は?」と根掘り葉掘り聞かれます。お店によっては伝票に名前を書くと言うことで真っ先に名前をたずねられたりします。顧客管理、伝票管理に便利なのは理解できるので、もちろん拒否もしませんが、自分のことを他人に言うことが、なんとなくできない。個人情報が! とかそういうことではなくて、たんに心が苦しくなる。そういう気持ちの人は実際かなり多いと思います。

 もっと別の、相手の情報になんら踏み込まない「なんてことない会話」と言うのもあるはずです。鉄板は天気や気候。「暑いですね」「雨が降りそうですね」「今朝は寒かったですね」等。
 ただ、これさえ僕はドキッとします。「暑かったっけ? どうだったっけ?」「暑いとか寒いとかは人それぞれだからどう答えればいいのかわからない」「今日は昼まで寝ていたので朝寒かったかどうかわからないんだけど、それを正直に言って変に思われたら嫌だし、かといって適当に話を合わせるのも嘘をつくみたいで嫌だし」等々。

 となると、いったい「なんてことない会話」というのはどこにあるのでしょう。
 たとえば、「その場ですでに共有していること」「その場ですぐに共有できること」がいいような気はします。

 たとえば、店内を虫が飛んでいるとする。「虫が飛んでいますね」「そうですね」←なんてことない会話!

「いやですね」「出ていくといいですね」「殺すのもかわいそうだし」「でも蚊っぽいですね」「刺されちゃいますね」「困りましたね」「蚊取り線香でもたきますか」「それがいいですね」「ちょっと線香の香りがしちゃいますけど構いませんか」「ええ、お願いします」

 ↑なんてことない会話……な気がします。

 夜学バーには本が並べられていて、訳のわからないものもけっこう置いてあります。

「これはなんですか」「それは犬の置物です」「かわいいですね」「裏を見てみてください」「インド製と書いてありますね」「そうなんです」「インドにいかれたんですか」「いえ道ばたで拾いました」「えっ」「いえ拾ったというか、ご自由にお持ちくださいと」「なるほど」「その場所というのが実はですね」(続く)

 ↑たぶん、なんてことない会話です。そして「続く」のあと、少しだけ「なんてことある会話」につながる可能性もあります。

 夜学バーというお店は、夜学というだけあって、「なんてことない会話」よりは「なんてことある会話」を喜びます。だけどいきなり「なんてことある会話」をおっぱじめるのは奇妙だし、難しいこと。はじめは「なんてことない会話」から始まります。しかしそれは決して「お近くですか?」とか「お仕事帰りですか?」ではなく、その時その時の状況やコンディションによります。

 すでにストックされた「なんてことない質問」の中から選び取られるのではなく、その時だけの、その時にたまたま生まれてくる言葉で。質問である必要はありません。質問は時に、それだけで暴力かもしれません。


(参考文献:尾崎昂臣『小学校には、バーくらいある』まなび文庫 第2章「質問いがいでしゃべれない?」)←拙著



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