見出し画像

孫の話「困難を乗り越え夢を追う」宗浩(孫)

訳者補足:作者ツァイ・ヤーバオの孫・宗浩(ツァイ・ヤーバオの長男・唐光華にとっての次男で、オードリー・タンの弟)による前書きです。

 祖母の回顧録のタイトルを『咬牙築夢錄(訳注:歯を食いしばって夢を築いた記録)』にしてはどうかと提案したことがあります。

 祖母の記憶の中で、戦後復興前の混乱の時代に故郷を離れ、祖父との生活をゼロからスタートさせともに歯を食いしばりながら幾つもの試練に立ち向かったこと。物質的に苦しい生活の中でも高貴な精神で生活を築き上げ、隣人と仲良くし、自分が正直で誠実であったことは、私たち孫に何ものにも代え難いお手本を示してくれたからです。

 回顧録では祖父母の強さや慈愛の精神に触れたことで、人の心の美しさや善良さは外部からの圧力で奪うことはできないのだと理解することができました。
 寡黙な祖父を思い出し、言語化されないいくばくかの感情も、それもまた「咬牙築夢」の過程だったように思います。祖父とおしゃべりしていた時、台湾から中国大陸への里帰りが認められた(※)ことについて「おじいちゃんは嬉しい?」と尋ねたことがありました。祖父は「嬉しい? 何も嬉しくないよ。両親がもういないのに、何が嬉しいことがあるものか」と答えました。その短い言葉を思い出す度、涙を堪えられなくなります。

※訳注:
1949年(戒厳令が解除された年、民国38年)以後、台湾は蔣經國政権の対中国共産党政策「三不政策(接触しない、談判しない、妥協しない)」により、中国大陸との往来や手紙などの連絡が断たれた状態にあった。

宗浩の祖父で作者ツァイ・ヤーバオにとっての夫である唐本昌のように、中国大陸から軍人や民間人として台湾に移ってきた外省人たちは、故郷の家族や親戚たちと連絡したり、再会することができずにいた。

そこから38年後の1987年10月、台湾政府(当時は国民党)が台湾住民の大陸への「探親 (里帰りという意味)開放政策」を通過させ、同年11月2日に蔣經國総統(当時)が実施を宣言した。
当時の対象は現役の軍人、公務員以外の一般市民たちで、年齢に制限はなく、大陸に三線等以内の親族がいる者は親族訪問ができた。回数制限は一年に一回。

ただ、これ以前にもリスクを冒して香港・日本経由で大陸に行く人々が数万人と数多くいたことは公然の秘密だという。

参照:
台湾史小事典(第三版)』P272「大陸の親族訪問を開放」

 祖父母が経験した数々の雨風を数十年後の私たちが理解するのは、どれほど難しいことでしょう。「少小離家老大回,鄉音無改鬢毛催(訳注:故郷を離れた少年が老人になってから戻った時には、故郷の言葉は変わっていないのに自らの髪は薄くなっている)」という言葉でも表現しきれません。

 祖母の回顧録は人生の信念とパワーを継承し、私たちに別の時空へ挑戦する愛や勇気を与える宝物であると思います。順調な時にはそれを惜しみ感謝し、逆光にあっては歯を食いしばって夢を築こうと思います。祖父母のように。

孫・宗浩
民国101年の春、指南山にて


こちらでいただいたサポートは、次にもっと良い取材をして、その情報が必要な誰かの役に立つ良い記事を書くために使わせていただきます。