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第14章 布靴作り | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第14章です。

 大肚山から台南の大同路果子園にある眷村に引っ越したのは、民国41年夏のことでした。その眷村の家では「克難式(訳注:物品が足りない時期に困難を克服する方法)」で建てられており、太い竹を柱に、中間部分を細い竹で編み、そこに石灰や稲殻、泥を混ぜたものを塗って壁を作ってありました。

 村は軍官と士官が半々で暮らし、全体で80戸ありました。

 士官の家は3坪半の部屋に半坪の厨房、玄関前におよそ1メートルほどの廊下という作りでした。軍官の家の間取りはもう少し広く、寝室が1つ多くありました。全80戸が8棟の建物に軍官4棟、士官4棟という形で分かれて暮らしました。夫は士官長だったので、3坪半の家を割り当てられました。

 この写真は私の家の玄関で撮ったものです。ちょうど子どものトイレが終わったところを近所の陳さんにこっそり撮られました。

 村には洗濯用のお盆が4つ置ける大きさのコンクリートの平台と、二つの蛇口があるだけで、それぞれの家庭が洗濯をするにはいつも行列に並ばなければなりません。

 シンプルな暮らしに慣れ過ぎていた私たちは、以前住んでいた場所では自分で水を汲み持ち帰って炊事洗濯をしていたことを思い出すと、今は蛇口から水が出るだけでとても満足でした。

 蛇口横の平台で誰かが水を出し、誰かがその水で洗濯をします。おしゃべりをしながら手を動かし、午前中はいつも賑やかでした。けれど、長話をしていてうっかり間違った話をすると、言い争いになることもありました。

 私はほとんどの場合、家に水を持ち帰って自宅の玄関先で洗濯をしていました。当時80戸のうち、私とお向かいの金さんだけが本省人で、他はすべて大陸の各地域から撤退して台湾へ来た人々でした。違う言語なので、時々本当に何を言っているのか分からなかったのです。

 住居問題が解決したのでお金を稼いで家計の足しにしたいと思い、内職の仕事を探し始めました。マッチ箱の糊付け千個で3元という仕事を見つけ、子どもを見ながら作業をしました。一日でだいたい千個ほど作ることができました。当時の物価から言うと、豆腐一丁が5角銭でしたので、毎日3元の収入が得られる仕事にとても満足でした。残念ながら半年ほどすると工場が閉鎖になり、私は失業してしまいました。

 後に知り合ったお向かいの奥さんたち4人は、皆旦那さんたちが部隊の大きなトラックを運転していて、その中の一人が私と同じ本省人でした。彼女たちはとても熱心で、私たちはとても仲良くなりました。当時の私は19歳で若かったので、彼女たちは可愛がってくれました。蕭さんは私に布靴の作り方を教えてくれました。

 まずは材料の準備です。使わない掛け布団などを切り、こね板を用意し、小麦粉を鍋で糊状に煮て、壁を塗る用の刷毛を買っておきます。

 作るときは、まず低い椅子の上にこね板を置き、布をこね板のサイズに切り取ります。最初に切り出した布をこね板の上に広げ、刷毛で糊を塗ります。その後もまた上に布を重ねて貼ります。5層糊付けして6枚目を重ねたら第一段階完了、太陽に晒しておきます。

 蕭さんは型紙を貸してくれて、乾いた布に型紙を合わせて鉛筆で線を引き、はさみで靴底用のパーツを作る方法を教えてくれました。片足あたり3枚の靴底パーツが必要なので、一足あたり6枚の靴底用布を切り出す必要があります。

 3枚の靴底用布を重ねたら、そこに切れ端の布を買ったものを糊で靴底の周りに沿ってゆっくり貼り付けます。乾いたら太い針で一針ずつ縫い合わせたら、布靴の完成です。子ども用も大人用も作り方は同じで、私は一足の靴を作るのにおよそ一週間かかりました。家事をしたり、子どもの世話をしながら作業しました。この技術を活用して、私は自分と子どもに布靴を作りました。

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